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俺なんかじゃ力不足だから彼女の足を引っ張りたく無い。だから君崎凛の提案を断りました。我ながら情けない話だ。
だけど、試合で失敗した後に比べれば何てこと無い。注目度の低い今でさえ、あれなのだ。万が一君崎凛とカップルなんて組んでみろ。日本中が、いや世界中の視線が俺に集まる。
最初、それは期待だ。だけどすぐにに失望に変わる。そして君崎凛の実力と人気を考えれば、それが非難に変わるのは間違いない。世界中にこういわれる。「君崎凛は、パートナーがあいつじゃなきゃ、今頃五輪の金メダルを取ってたのに」と。簡単に想像が出来た。だからこそ怖かった。
俺はその後直ぐにリンクに戻った。本当は、リンクメイトたちに会って、ことの顛末を説明するのが嫌だったが、コーチとの練習をサボるわけにはいかない。
戻ってきた俺の周りにリンクメイトたちは群がったが、長くなるからそのうち説明すると適当に言い訳して、直でリンクに入った。
俺は無心になるために練習にふけった。
トリプルジャンプはなかなか決まらない。スケーティングも浅い。練習の質が低いのは分かっているけれど、それでも止めはしない。無駄に時間と体力を浪費し続ける。ただただ全てを忘れるために。
それでもそんなハードな練習は長くは続けられない。それにリンクは俺だけのものじゃない。二時間ほど練習した後、別の選手たちの練習時間になる。
その間、俺はひたすら柔軟体操で時間をつぶし、自由にリンクが使える八時台にまたリンクに戻ってきた。今はシーズンオフだから、こんな時間に練習をする選手はほとんどいない。だから、リンクを独占できると思っていた。
だけど、そこには先客がいた。
銀盤を舞う少女。一切の前兆無く空に舞い上がる。三回転して着氷。鳥のというよりは、蝶のような軽やかさと優雅さを兼ね備えている。
さっき帰ったはずの君崎凛だ。だが今朝とは違って、今はスケート用の衣装を纏っている。紫色の衣装、それはどこかで見たことのあるデザインだった。
何でこんなところにいるの、俺がその問いを発する前に彼女が動いた。
「見て欲しいものがある。ちょっとだけでいい、時間を頂戴」
そういって彼女は、リンクの中央に向かっていく。しばらくすると場内に音楽が流れ出した。
どうやら凛が見せたいというのは、このプログラムらしい。ニーノロータの『ロミオとジュリエット』だ。昨シーズン俺がフリーで滑った曲。ちょうどこの出だしは、俺が去年使ったのと同じ部分だ……いや、同じなのはそれだけじゃない。すぐに気がつく。編曲も、振り付けも、去年の俺のプログラムとまったく同じだ。
「馬鹿な」
俺は思わずつぶやいた。この『ロミオとジュリエット』は、試合で使うために作られたもので、決して一日やそこらでマスターできるような簡単なプログラムじゃない。
それなのに、今彼女は、俺の前の前で、俺以上に、プログラムの魅力を引き出している。振り付け、タイミング、そして各個のエレメンツ、全てが完璧だ。結局ワンシーズン滑りこんでも、俺には完成させることが出来なかったプログラムが、今、目の前に完成形となって現れようとしている。
ここまで、トリプルアクセルや三回転三回転のコンボを含めて、演技はノーミス。激しいステップシークエンスを終えて、演技は後半に入る。冒頭のジャンプはトリプルアクセル。全日本はおろか、昨シーズン他のどの大会でも決められなかった技だ。体力と集中力が低下する後半において、自身の限界点であるこのジャンプを成功させるのは至難の業。しかも彼女はペアに転向している。シングルで使うエレメンツの練習時間は減っているだろう。
それに凛は女子だ。通常、女子は体力面でもジャンプの技術面でも男子に劣る。普通なら演技冒頭の一本目か二本目に組み込んでしかるべき最高難易度の技を、演技後半に成功させるなんて、普通ならありえない。ありえないはずだ。
だが、彼女にはそれが出来た。刹那の溜め、そして飛翔。次の瞬間、虹の様に美しい半円を描き、彼女は氷上に舞い降りていた。
君崎凛という少女は、俺が出来なかったものを完璧な形で作り上げた。そのことに対する悔しさの感情はこれっぽちも沸かなかった。ただただ、その優雅さに感嘆した。
最後をストレートステップで締めくくって演技は見事にフィニッシュ。信じられない出来事を前に、拍手をするでも声を出すでもなく、ただ呆然としててしまう。
「このプログラムもね、私の中にすんなり入ってきた」凛は少しだけ息を乱しながらしゃべりかけてきた。俺はこのハードなプログラムをこなした後、肩で息をするほどなのに、彼女は余裕のようだ。「やっぱり、王寺君と私の相性は絶対にいいはずだって確信した。私たちならきっと世界一のペアになれる」
「……それでも、俺の実績を知ってるだろ?」
「これから作れば良い。私と。また一からスタートしよう。あなたと組む私は、世界女王じゃない。ペア初心者の一フィギュアスケーターとして同じラインから」
彼女はあまり感情が表に出ないタイプだが、今は明らかに必死さが伝わってくる。この人は、俺とペアは上手くいくって本気で考えてる。確信してる。
「確かにペアには憧れてたし、君崎さんと滑れるなんて願ってもないだけど」
けれど、どんなに彼女がそう思っていても、凛は俺のことを知らない。
「やっぱ無理だ。俺が練習王子なのはたぶん変わらない。きっと俺のせいで君崎さんの夢を壊しちゃう」
やっぱり俺の《決意》は固かった。確かに彼女とスケートをできるのなら、その後すぐ死んでもいいくらいだ。けれど、俺の情けなさが彼女を傷つける可能性が高いんだ。五輪にいけないくらいならまだ良い。もしかしたら、命さえ奪ってしまうかもしれない。そんな危険に、今の俺が足を突っ込むわけには行かない。
俺の拒絶に、凛は黙り込んだ。十秒くらい、やけに長く息苦しい沈黙。
「じゃぁ……賭けをしよう」
「賭け?」
「ルールは簡単。今からあなたはトリプルアクセルをやる。勝負は一回」
トリプルアクセルは、フィギュアスケートの中でも1,2位を争う難度を誇る。その美しさから数々の人々を魅了してきたが、同時に何人もの選手を地獄のそこに引きずり落とした技でもある。
男子シングル選手にとっても、その難易度は最高レベル。現に、俺は昨シーズンこの技に十回以上挑んだが、着氷したのはたったの一回だけ。まして今はオフシーズンで調整ができてないし、今日は無理な練習を重ねたから体調も万全じゃない。そんな中で、この《練習王子》の俺が成功するはずが無い。
「それで、俺が失敗したら、君とペアをやるってこと? それなら絶対やらないよ。俺が不利すぎる」
けれど、彼女は首を横にふった。
「違う。君が成功したら、私とペアをやるの」
俺は耳を疑った。
「俺が成功したら、君崎さんの勝ち? そんなの勝負にならないじゃん。だって、俺がわざと失敗すれば、それで終わりだ」
「そうね。でもダメモトで言ってるし、それに……君は全力で挑んでくれるって信じてる」
「……わかった。でも本気でやっても成功しないよ。自分で言うのも恥ずかしいけど、俺のあだ名知ってるでしょ」
「ううん。成功する」
なぜか、彼女は凛として言い切った。跳ぶ本人が無理だといっているのに、なぜ彼女がそこまで言い切れるのか、まったくわからない。
「根拠はあるの?」
「女のカン」
「……わかった。それじゃその勝負受けるよ」
「男として、全力でやることだけは保障する」
俺はリンクの端に向かう。今日一度だけトリプルアクセルに挑んだが、もちろん失敗した。いや、思い返してみれば、今月に入って終わってから、トリプルアクセルに成功した覚えが無い。練習でさえ成功してない。そんな状態で成功するはずが無いじゃないか。
逆にここまで来ると、いつもより緊張しない。俺は完全に諦めながら、ジャンプの助走に入った。長い助走を取る。もちろんジャンプ前のステップなんて無しだ。音楽もかかってないから、あわせる必要も無い。試合などと較べるとはるかに難易度は下がるが、それでも尚トリプルアクセルは最高難易度。成功するとは思えない。
右足でバックのまま滑る。そして振り返ると同時に左足に全ての体重を預ける――――その瞬間。俺は奇妙な感覚にとらわれた。
それは忘れかけていた感覚。自分の中で、なんというか、確かな《軸》が出来るような。そんな不思議な感覚。
このジャンプは間違いなく――成功する。そして次の瞬間、俺は再び氷の上を滑っていた。右足一本に全てが乗っている。
信じられなかった。あまりにも軽やかに決まった。自分でもわかる。高さ、跳距離、空中姿勢、回転軸の小ささ、どれをとっても完璧なジャンプだ。
俺は信じられず、凛に尋ねた。
「今の本当に《三回転/トリプル》だった?」
あまりに綺麗過ぎるジャンプは、往々にして回転数が少なくみえることがある。もちろん、ジャンプをした方は分かっている。俺はしっかり三回転した。それは間違いない。
だけれど、それでも尚信じられなかったのだ。この状況、しかも一発勝負でトリプルアクセルが決まるなんて。
「本当に綺麗なトリプルアクセルだった」
なんだろう、とにかく不思議な感覚。
「私が保証する」
彼女は断言する。
「君は、絶対に、強くなれる」
なんだろう、彼女に出来るといわれると、そんな気がしてくる気がする。
不思議と力がわいてくる。本当に不思議な感覚だ。神聖な光に包まれたような、感じたことのない浮遊感。どこまでも跳んでいけるような、そんな感じ。
「君と私は……絶対に、五輪で金メダルを取れる」
頭の中で構築した、あらゆる予防線は、そんな非理性的なものによって全て取り払われてしまった。
信じてみよう、彼女を。
彼女が信じる俺を、その大きな夢を。




