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学期初めということでほとんど授業も、一日はすぐに終わった部活や習い事をやっている人間的には、授業が早く終ることはそんなに嬉しいことではない。むしろ練習が長くなるだけだからだ。
俺にとっては、嫌というわけではないが嬉しくもない、といったところか。別にスケートの練習が死ぬほど好きなわけでもないし、勉強が死ぬほど嫌いなわけでもない。
とはいえオリンピックが近づいていることを考えれば、練習出来る時間が長いのはいいことだ──もっとも、俺がオリンピックの日本代表になる可能性は、ほぼゼロに等しいが。
俺は直接高校から徒歩五分のリンクに向かった。
シーズン明けということで、練習は個々のエレメンツ<技>が中心になる。今はコーチと新しいプログラムをどうするか、話し合いの最中で、まだ使う曲も決まっていない。
技術面で言えば、今年の課題はできれば四回転の習得。高難度ジャンプの習得は、一応オリンピックを狙っている以上必須条件だ。特に俺のような二番手三番手の選手にとって、大技は逆転劇を演じるための必須条件になる。
ちなみに、既に《練習では》四回転はかなり完成しつつある。試合で使ってもいいくらいの成功率だ(あくあで一般的な話だが……)。
建物に入ると、俺は手早く着替えてリンクに向かった。リンクの中央に男女が一人ずつ。俺は、準備運動をしながら二人のスケートを鑑賞することにした。
二人は片手を繋ぎサイドバイサイド<隣り合って>で滑っている二人は完璧にシンクロしている。
そして二人は両手を繋ぐ。そのまま男性が女性持ち上げる。頭上まで持ち上げた後、男性はさらに片手を離してしまう。男性の筋力に女性のバランス、そして二人のユニゾン。すべてが揃っているからこそできる技だ。
ちなみに今のように手と手をつないだままだ男性が女性を頭上に持ち上げるのは、もっとも難しい。その中でも彼らが見せたのはアクセルラッソーという最高難易度のリフトだ。
最高難度技を涼しい顔で決める二人を、俺は羨望のまなざしで見つめた。
ペアスケーティング。
フィギュアスケートの競技は、五つの種目に分かれる。一人で演技をする男女シングル。そして二人で演技をするのがペアとアイスダンス。大勢で同時に滑るシンクロナイズド。
このなかで、もっとも特異なのがペアだろう。そしてもっとも危険でもある。
男性が女性を頭上にあげるリフト。さらに頭上で回転させるツイスト。女性が男性に投げられながら回転するスロージャンプ。
大同芸顔負けな技の数々を、氷上でたった二本の薄いブレードにすべてをゆだねて行うのである。常に危険が伴うのは言うまでもない。
リフトで落下したら? 二メートル以上の高さから落下すればただではすまない。
パートナーの鋭いエッジが自分に突き刺さったら? いつもは氷を削っているそれが、自分の、最悪パートナーの肉を削ることだってある。
いつ白銀が鮮血に染まってもおかしくは無い。生半可な覚悟では競技に参加することさえできない。
すべては二人のユニゾンにかかっている。パートナーに命を預ける覚悟。比喩ではない。文字通りの意味でだ。それが無ければ、参加さえできない過酷な競技、それがペアだ。文字通り命がけの挑戦、それゆえの美しさがそこにある。
俺は自分の準備運動を忘れて、その見事な技に見とれていた。リフトやスロージャンプの時だけではない、ただ滑るときも常にシンクロしたスケーティング。見事というほか無い。ただ滑っているだけでも、お互いに対する信頼が伝わってくる。
しばらくして、彼らの練習時間は終わったようで、二人手をつないだままリンクサイドに向かってきた。
「こんにちは、ジュレミー、ステイシー」
ステイシー・スミス&ジュレミー・グリーン組。
世界選手権のメダルを複数持つ実力者だ。今期、ショートプログラムの振り付けを、俺が所属するリンクの神崎コーチに依頼している。現在プログラムの打ち合わせでここに滞在中だ。
「やぁ。学校はどうだった?」
残念ながら彼らはアメリカ人で、日本語は話せない。なので自然に会話は英語になる。
スケートをやっていると海外遠征が多い。だから自然と英語が必要になる。それに海外のコーチや振付師に教えを請うなら英語は必須だ。
「友達に会えてよかったよ」
「それはなによりね」
こうして俺と会話している間も、二人は手を繋いでいる。というか俺は二人が手をつないでいるところしか見たことがない。ファンの間では恋人同士だという噂が囁かれているが、どうやら本当のことらしい。
ちなみに日本人は勘違いしがちだが、ペアのカップル=恋人同士ではない。たいていの場合、パートナーは高みを目指すための相棒でしかなく、現役引退後あっさり他と結婚なんてのもまったく珍しい話ではない。
とは言っても、こういう考えは、なかなか日本の文化には合わないことだとは思う。日本はシングルでは世界トップだが、ペアやアイスダンスとなると後進国どころか、そもそも一組もペアがいないというのもざらなのだ。
現在日本人のカップルは、ペアが一組、アイスダンスはゼロ。男女が組めば、日本一になれる競技──冗談抜きで現在の日本スケート界ペア種目の現状だ。
「じゃ、またね大輔」
そういって彼らはラブラブオーラを放ちながら去ってっいく。その姿は氷上での情熱的な姿とはうってかわって、本当にただイチャイチャしているカップルだった。
お似合いのカップル。美男美女で、二人ともお互いに見合った力を持っている。練習もプライベートも本当に充実しているのだろう。
なんていうか、ちょっとだけ……いやかなりうらやましい。好きな人と対等な力。それは俺には無いものだ。
「ペア……か」
俺の心の中には少しだけ、ペアに憧れる気持ちがあった。
俺にも好きな人がいる。ただ、一度も話したことさえない人で、好きな人というよりは《憧れの人》といったほうがいいかもしれない。
正確に言えば、ペア競技そのものにではなく、その人と一緒に滑ることに憧れているのだ。
もちろん、好きな人に近づきたい、という邪な気持ちは否定できない。だけど俺が彼女とペアをやりたいと思う理由はそれだけでもなかった。ただ純粋に、あの人とスケートをできたら。スケーターとしての俺自身がそれを夢見ているのだ。
もちろん、いろいろな意味で不可能なことだ。こんな情けない俺が、誰かの命を預かることなどできるはずがない。強くそう思う。
シングルなら、どんなに失敗したって、命を落とすことはない。でもペアは違う。俺にはそのリスクを背負う勇気もないし、資格もない。なにもかもが足りてない。
彼女たちの背中を見つめているうちに、自然と拳を握り締めていた。




