4-11
試合後に行われた記者会見などの全ての行事を終えた後、俺と凛は二人だけで真冬の道を歩いていた。会場から二人の自宅までの道は、近所の人にランニングコースとして使われている。歩けば二十分ほどの距離。
最高の夜。この聖夜に、二人は最高の演技をした。だからリンクを出て「はい、さようなら」ではもったいない気がしたのだ。
「家まで、散歩して帰らない?」
そう提案したのは、意外にも凛だった。だが、凛がそういわなくても、代わりに俺がそう提案していただろう。余韻に浸っていたいのは、俺も同じだったのだから。
二人は黙ってその道を歩いた。けれど、そこに気まずさはまったく無い。そこにあったのは嵐の後のような、安心感に満ちた静けさだけだった。
数時間前まで、満員の観客に囲まれてたのが嘘のようだ。ただただ静かな道、そこを歩くのは二人だけ。俺たちはかみ締めるように、一歩一歩その道を歩いた。だけど、その道は短すぎた。あっという間に見慣れた場所にたどり着いてしまう。後一つ角を曲がれば、凛の自宅だ。家が見えてくる直前になって、凛が立ち止まった。先に前に行った俺は、凛の方を振り返った。
「ねぇ大輔」
「何?」
「リンク、行かない?」
外灯に照らされた凛の顔はとても安らかだった。神が与えたこの小さな運命を咀嚼するのに、まだまだ時間が足りないのは明白だった。
「うん、いいよ」
もちろんリンクといっても、全日本の会場じゃない。俺たちが普段練習しているリンク、ここから五分の距離だ。俺たちは足先を換えてリンクに向かう。
二人はやっぱり無言だった。ただ俺は、凛が何かを言いたそうにしているのだけは感じ取った。それが何かは分からない。ただ彼女は多分リンクでそれを言おうとしている。
俺は頬に冷たさを感じた。それを手でぬぐったとき、視界に白いものが映った。
雪が降り出したのだ。
「冷たいね、雪」
凛は自分の頬に落ちた雪を手で撫でた。一瞬で解ける雪、けれどまた振ってくる雪。二人とも折りたたみの傘は持っていたが、それを使おうとはしない。
リンクまでの一本道、暗いその中に、一本の木だけが浮かび上がっていた。リンク前にあるモミの木だ。
スケーターにとって、クリスマスシーズンは試合が重なる大事な時期で、恋人といちゃつくような暇は無い。そんなクリスマスを意識することの少ないスケーターのために、リンクが用意したささやかなプレゼントというべきか、このモミの木は毎年豪華なイルミネーションで彩られるのが慣例だった。
俺は、練習に集中しきっていたので、今の今まで、このイルミネーションの価値に気がつかなかった。視界には入っていたのだが、観ることはしていなかった。
良く観れば、今まで目に留めなかったはもったいないと思えるくらい綺麗だった。青い光で周囲を照らすそれは、エキシビジョンを思わせる。
「最初に大輔と会ったの、ここだったよね」
凛はツリーを見上げた。一年前、全日本で大敗して失意の中クリスマス迎えて、そして彼女に出会った。そして今、同じように、二人はここにいる。
「私たち、すごく高く跳んだよね」
ジャンプの高さのことを言っているのでは無いのはすぐ分かった。この一年のこと。ペア未経験の二人が、僅か一年であれほどの演技を出来るまでに成長したこと。
この一年必死で駆け抜けた。間違いなくあの時俺たちは最高の演技をした。けれど、
「でも届かなかったね」
そう言う凛の表情は穏やかだった。
全日本選手権。フィギュアスケートペアスケーティング。
君崎凛&王寺大輔組。ショートプログラム一位。フリースケーティング二位。
総合二位──
極めて順当な結果だった。むしろショートだけでも、井上組に白星を挙げたことが奇跡だったのだ。確かに、ジャンプの技術では二人が井上組を圧倒していた。けれどペアは、ジャンプだけじゃない。リフト、ツイスト、スロージャンプ、デススパイラル、ペアスピン。二人には足りないものが多すぎた。アクセルラッソ――つとっても、彼らのはレベル3で加点が2、俺らのはレベル1で減点1だ。ツイストも彼らはトリプル、俺らはダブル。
そして、なにより演技全体の質、つまり、ペアとしての成熟度。いくら努力を重ねたからといって、いくら才能があるからといって、時間的なディスアドバンテージだけは埋めようが無かった。例え、トリプルアクセルをもう二回決めていたとしても、勝てる相手ではなかった。それはわかりきったことだった。
「大輔は後悔してる?」
凛はツリーに目を向けたまま俺に尋ねた。
「まさか」
後悔は少しも無かった。オリンピックへ行ける確立は限りなくゼロに近かった。それでも二人は信じて練習した、信じて戦った。そして最高の演技をした。それで十分だった。
確かに、二人は井上組に負けた。五輪代表の座も逃した。だからってなんだ。
ショートだけでも彼らに勝った。フリーだって、絶望的な状況からスタンディングオベーションまで持っていった。十分じゃないか。
それに五輪は一度じゃないんだ。俺たちはまだ二十歳にもなってない。四年後を狙えば良い。八年後だってまだまだ。もしかしたら十二年後だって。
シングルスケーターが第一線で戦える時間は、野球やサッカーに比べれば圧倒的に短い。ピークは二十代前半であることが多い。女子の選手にいたっては、十五歳を境目にその後はどんどんジャンプが跳べなくなっていくことだってごく普通にあることだ。けれど、ペアは比較的そのスパンが長いことが多い。カップルによっては複数回のオリンピックに出ることも珍しくは無い。
まだまだこれからだ。
「私もね、後悔はしてない」
そう宣言した、凛だった。けれど、彼女は俺から目線を逸らし、下を向いた。
「でもね……」
彼女はぎゅっと拳を握った。
「なんか……」
そして瞳を閉じた。
「やっぱり悔しいよね」
彼女は泣かなかった。
でも、泣いてくれるほうがマシ、そんな顔をしている。
「ねぇ、大輔」
そこで、凛は俺に向き直った。俺は雰囲気から察して、彼女の目をまっすぐ見た。演技のときのように、真剣に見つめ合う。
「大事なお願いがあります」
「うん」
「一緒に、四年後のオリンピックを目指してくれますか」
出てきたのは、そんな、いまさらな質問。けれど、過去にカップルを僅か数ヶ月で解散している凛にとって、それは当たり前のことではなかった。
例えそれが当たり前のことであっても、言葉にしておいた方が良いことだってある。
「凛が俺を見捨てない限り」
「じゃぁ、その後は?」
上目遣いの俺に言葉を求めた。彼女が一番欲しがってる言葉。それは彼女がずっと、心の奥底で求め続けていたもの。それが何なのか、俺は知っている。そして、それを与えることも出来る。
「八年後も、十二年後も、その後も、俺は凛とずっとペアをやりたい」
俺は彼女の目をしっかりと見据えてそう断言した。
「そっか」
その言葉を聞いた凛は、黙り込んで、下を向いた。
そして、彼女の頬を一粒の涙が伝う。
俺は、凛の恩師である長坂コーチの言葉を思い出した。
「あの子が本当に求めてるのはね、誰かと一緒にいることなの。ソチオリンピックに行くことじゃないわ」
俺は凛の涙が、コーチの言葉が正しかったという何よりの証拠だった。
「あ、そういえばさ」
今なら聞ける気がした。
「聞きにくいんだけどさ……」
ショートの日以来、ずっと聞きたかったこと。
「全日本のショートの演技前にその……キスしてくれたじゃないですか」
それは思春期男子の俺にとって、実は五輪とおんなじくらい大事なことだったり。
あのキスのおかげで、俺は緊張から開放された。そりゃそうだ、国民的美少女に、頬っぺにとはいえ、キスされたんだ。他のことなんでどうでもよくなる。
「あれはつまりさ……俺のこと……」
好きってことでいいのかな。
「うん」
凛は頬を赤らめてうなずいた
「大好きな人へのおまじない」
心臓が高鳴る。それはもう演技前なんか比べ物にならないくらいに。
フィギュアスケートなんて、女の子ばっかりの競技をやっていながら、彼女なんて出来たことなかった僕の人生。
それが今日変わる――
「私の親友が、大事な演技の前にやってくれたの」
…………。
……。
ん?
「本当に大事な人にしかしないおまじないなんだって」
えっと。確かに凛の親友って……女の子だったよね。それってつまり……別にあのキスには、恋愛的な意味はなかったってことですか。
「あのさ、凛。唐突なんだけど、もう一つ聞いていいかな」
「何?」
「凛ってさ、誰かと付き合ったことある?」
「あるわけない」
ですよね。
「っていうか興味ない。スケート以外に興味なんてない」
となると、俺はこの二日間、とんでもなく恥ずかしい思い違いをしていたわけだ。
いや、確かに、俺はもともと凛に恋してたわけじゃない。だけど、そりゃキスの一つもされれば意識するわな。普通。俺のこと好きなんじゃって思うのも当然だ。
けれど、ふたを開けてみれば、凜は結局スケートのことしか、つまりペアのパートナーとしての俺にしか興味無かったわけだ。
なんていうか……凛らしい。本当に子供みたいに、スケートのことしか頭に無い凛。他に何も持ってない。でも、だからこそ俺が守ってあげなきゃいけない。
遥か遠くだけを見つめてる。だから誰かが、周りを見つめてあげないといけないんだ。
別に恋人じゃなくていい。パートナーとして隣で一緒に滑っていけるなら……っていうのはちょっぴり負け惜しみも入ってるかも。
…………。
……。
雪は冷たい。でも、朝がやってくるころには止んでいるだろう。そしたら、そこは一面白色の、輝いた世界になっているに違いない。




