4-09
音楽が止まった。即ちそれは演技中断を意味する。
演技の中断は、怪我をしたり、何かトラブルがあった際に認められる。二人が演技を中断した理由は、後者だ。トラブル、一シーズンに一回見られるかどうかというようなトラブルが俺を襲った。転倒の衝撃でスケート靴の紐が切れたのだ。
騒然となる会場、俺は左足だけでジャッジのところまで滑っていき、靴紐の切れた右足のスケート靴を見せた。ジャッジがそれを確認すると、靴を取り替えることが正式に認められる。与えられた時間は二分。その間にリンクに戻らなければならない。俺は急いでリンクサイドに向かった。コーチがいち早く代えの靴を用意して、凛がそれを受け取った。俺はそのあいだに靴を脱いで、新しい靴を受け取る。
演技に戻るため急ぐ俺。だがさっきまで胸のうちに溢れていた希望は、いまやひとつ残らず消え去っていた。
転倒による技のできばえ面での減点が三点。転倒による減点が一点。演技中断による減点がさらに二点。合計六点の減点。200パーセントの演技をして、ようやく届くかどうか、そんな状況でこの六点はあまりにも大きすぎた。それは逆転不可能を意味する。
「ごめん」
希望が消えさった俺の心に残ったのはその言葉だけだった。
「君の夢を、壊してごめん」
届きそうだった。少なくとも届くと思っていた。喧嘩も乗り越えた。奇跡も起こした。
なのに、最後の最後で失敗したのだ。結局俺が全てをぶち壊したのだ。
俺は顔を上げることができなかった。ただ下を向いて、涙を流すしかなかった。
涙が止まらない。ボロボロ流れてくる雫が、頬を伝ってリンクに落ちる。
もうすぐ靴紐が結び終わる。それまでに罪を背負う覚悟を決めなければならない。演技に戻らなければならない。希望のない、負け戦に戻らなければならない。
両足の靴紐を結び終わる。俺は涙を拭いて、前を向いた。
そして目に映ったのは、凛とした彼女の顔だった。
俺は息を飲んだ。
涙のせいで照明の光がプリズムする。でもだからじゃない、凛が輝いて見えるのは。
「大輔、まさか諦めてる?」
その言葉に俺は返事することができなかった。
諦めてるか、だって? そんなの決まってる。諦めてるに決まってる。
もう井上組に勝つのは不可能だ。自分に残されたの使命は、この負け戦を最後まで戦い抜くこと、それだけ。俺はそう思っていた。
「まだ……まだだよ」
だが凛はそれを否定した。絶望的な状況の中で、凛はまだ諦めていなかった。
「まだできること、残ってるよ」
そういって凛は俺に手を差し伸べた。
「まだ、私たちの夢は終わってない」
輝く照明の光が彼女に降り注ぐ、俺を導く太陽のように。
けれどその手を取っていいのか、わからなかった。
「〝アレ〟をやろう?」
凛は微笑んだ。
分かってる。一つ目のアクセル<トリプルアクセル>が失敗した。
なら二つ目のアクセル<ワンモアアクセル>しかない。
「でも……」
確かに〝アレ〟は希望の光だ。けれど、俺はためらう。
「でもアレは………」
成功しても、試合に勝てるか分からない。失敗すれば、試合には負ける上に、償いようの無い怪我を彼女にさせてしまうかもしれない。
ハイリスクローリターン。そしてそれを背負うのは俺ではなく凛だ。
刹那の思考。導き出したのは、臆病が生んだ答えだった。俺は諦めようとした。臆病な自分を直視した結果、出した答えがそれだった。
自分のために。凛のために。自分は何も変わっていない。それを認めた。けれど、
「私、今の大輔になら、命預けられるよ」
その一言。たった一言が俺を動かした。俺はスケートを始めたあの日から、ちっとも変わっていなかったのだ。結局のところ、俺にとってスケートとは君崎凛という少女そのものだったのだ。凛が俺を動かしてきた。それは今でも変わらない。
だから俺はいとも簡単に、結論をひっくり返した。
自分でもびっくりした。凛がまだ諦めていない、たったそれだけのこと、それだけのことで、俺の心の中で希望が息を吹き返したのだ。
俺は涙を拭いて、原のそこからそれを宣言した。
「……凛の命、預かるよ」
俺の言葉に、凛は頷いた。
何とか時間内に靴を履き終え、立ち上がる。数秒後、転倒した直後のところから、再び曲が流れる。
会場から大きな声援が巻き起こった。俺たちはしっかりと手をつないで、もう一度滑り出す。
こんなとこじゃ終われない。これは結局いつまでも成長出来なかった《練習王子》の最後の意地だ。
演技は最初の一分で中断された。演技時間は三分も残っている。勝負はこれからじゃないか。
「行こう」
俺は凛の手をしっかりと握った。
「うん」
まずはツイストリフト。ニ回転の簡単なツイストを手堅く決めて、次の技に意識を向ける。続くソロスピンは、二人の得意技だ。当然だが、ソロスピンでは、二人がまったく同じ姿勢をとらなければならない。そして普通男子は女子に比べて柔軟度がはるかに劣る。だからどうしても、男子にあわせて要求される柔軟度が低いポジションをとらざるを得ない。けれど、俺は男子の中ではトップレベルの柔軟性を持つ。持っているポジションのバリエーションは、女子のトップ選手にも劣らない。
俺たちは。ビールマンやドーナツなど、普通は女子のトップ選手にしかできないような技を含めて多彩なポジションで回転し、会場を大いに沸かせた。
そして、ペア一年目の俺たちにとって難所とも言えるリフト。ハンドトゥハンドのリフト。グループ4、つまり手と手をつないだ状態からそのまま持ち上げるリフト。
ハンドトゥハンドのリフトは二種類あって、女性が男性の周りを回りながら頭上に上がるラッソーと、ただ単にまっすぐ頭上に上がるプレス。俺たちができるのはグループ4のプレスのみだ。それが、《練習において》確実に出来る最高レベルの技。
確かに難しい技だ。けれど緊張はない。向き合った状態、しっかりと見つめ合ってから彼女を頭上に送り出す。もちろん、成功。
その後いくつかのエレメンツをこなし、演技は中盤に入る。この後には試合直前になって挑戦を決めた《あの技》待っている。
最高難度を誇る技。未熟な俺たちにとっては雲の上にあるはずの技。失敗すればただではすまない。けれど、同時に逆転にはどうしても不可欠な技。
いつもの俺なら、絶対に成功することは無い。だけど、五輪代表がかかった人生最大の正念場であり、さらに冒頭に大きなアクシデントがあったにもかかわらず、あまり疲れはたまっていない。むしろ力がだんだん沸いてくるような感覚さえある。
踏み込む前、一瞬だけ凛と目線がある。その瞬間、何故だろう、成功を確信した。
凛は一回転半しながら高みへと昇っていく。女性が頭上に上がるまでにまるでアクセルジャンプのような動作をすることから、この技はこう呼ばれる。
――アクセルラッソー。グループ5のハンドトゥハンドリフト、得点はほかのラッソーリフトの上を行く究極のリフト。それを俺たちは、この土壇場で成功させた。
たぶん、今頃コーチは度肝を抜かれているに違いない。冷静なコーチも、さすがに慌てふためくだろうそんなことを考えるくらいの余裕がある。
凛は着氷と同時に、手足をピンと伸ばして、技の成功をジャッジにアピールする。会場の盛り上がりが頂点に達したのを感じた。鳴り止むことのない拍手が、二人を後押しする。
ストレートラインステップシークエンス。俺は心の中に残った後悔と、身体のうちから沸き起こる激情を、この最後の見せ場にぶつけた。
そして最後のエレメンツはヒップリフト。そこから数秒姿勢をキープし、そのまま女性が両手両足を広げるスターリフトへ移行する。
凛をそのままおろし、抱きとめる――
今、夜が去り、星が沈んだ。
このときの俺たちは不思議な感覚に包まれていた。




