4-08
フリープログラム。
氷上に跳び出す井上組。
ショートでは俺たちが彼らよりも先の滑走順だった。そして先に行われたライバルの予想外の演技にプレッシャーをかけられ、彼らはペースを乱されたのだ。わずかなミスが命取りになるショートにおいて、下克上は決して珍しい現象ではない。井上組にとってジャンプの転倒はあまりに大きすぎるミスだった。
だが、フリーはそうはいかないだろう。相手は何度も修羅場をくぐってきたベテランペアだ。確かに井上姉弟は、昨日俺たちの迫真の演技に圧倒され、動揺した。だがそれは、ライバルだとも思っていない格下の相手だと思っていた俺たちが、前人未到のトリプルアクセルを決めたという出来事が、寝耳に水だったというだけの話。
一夜明けて、彼らは完全に落ち着いている。そして、俺たちの実力を冷静に見つめてもいるはずだ。規格外のトリプルアクセル、だが全体の質は自分たちの方が遥かに上だという確信があるはずだ。
自分たちがいつもどおりの演技をすれば勝てる相手だってわかっている。だから井上姉弟は気持ちを十分に落ち着けて今日のフリーに望むに違いない。
となれば、俺たちはかなり苦しい戦いを強いられる。ノーミスは必要条件。だがそれだけでは勝てない。練習の200パーセントの演技をしたとて勝てるかどうか……。
昨日は奇跡的に成功したトリプルアクセルだが、確率的に言えば、今日も決まるとは限らない。さらにフリーは、リフトやリフトといったペア特有の技の比率が増える。カップル結成一年目の二人にとって、フリーは圧倒的に不利な種目だ。
彼らの演技が始まる。
予想通り、井上姉弟は、昨日の不調から一転、完全に気持ちを切り替えて乗り込んできた。これまでのところ、ミスは一つも無い。
井上姉弟はペア特有の技が得意な一方、ジャンプは苦手としている。現に昨日もソロジャンプを失敗し、かなりの点数を失っている、
だが、昨日と同じ技を今日は完璧に決めてきた。敵ながら見事な精神力だ。残りの技の中にミスする可能性があるとしたら、コンビネーションジャンプしかないが……。
トリプルジャンプ、ターンを挟んでダブル。二人は課題のジャンプを軽やかに決めてみせる。これで失敗する可能性がある技はもう残っていない。
会場の拍手に後押しされてのステップシークエンスで、二人は悲劇の一幕を見事に表現した。
井上組のフリーの使用曲はロミオとジュリエット。二人は姉弟だが、まるで本物の恋人同士で踊っているような迫真の演技だった。まだまだ未熟であるにしても、彼女たちが演技の素養を持っているのは間違いないだろう。
ソロスピンでは見事にユニゾンを保ちながらも、高速で回転して観客を沸かせた。
そして彼らの最大の見せ場がこのリフトだ。繋いだ両手。弟が姉を持ち上げる。姉は、アクセルジャンプのように踏み込んで、頭上に上るまでに弟とともに一回点半する。
アクセルラッソー。
リフトは簡単なグループ1から、難しいグループ5までに分類されるが、このリフトは他のグループ5を超える得点が与えられる最高難度のリフト、つまり究極のリフトだ。
さらに弟が姉から片手を離した。ワンハンドホールドという危険度の高い技だ。リフトは本来両手で女性を支えるものだが、それを片手だけで行う。男性に要求されるパワー、そして女性に要求されるバランス、それらは想像を絶する。
さらに姉がポジションを変化させる。弟と繋いでいる右手以外の全ての肢体を開き、星のようなポジションを取るスターリフトに変形させる。これまた危険で難しい技だ。
彼らは、さらに加点要素を積み上げた。このリフトは最高評価のレベル4。つまり、コレをこえるリフトはこの世には存在しない。
そして着氷も完璧。敵ながら圧倒的なリフトだ。殊リフトにおいて、彼らに勝てるカップルはほとんどこの世にいないかもしれない。彼らはこのリフトの申し子なのだろう。
今の俺たちのリフトは、彼らに遠く及ばない。
だけど……俺たちには俺たちの技がある。だから焦る必要は無い。
その後も最後まで彼らの集中力は切れることなく、最後にペアスピンで演技を締めくくった。
パーフェクト――。文句のつけようがない演技。
「素直にいい演技だったと思う」
凛はスタンディングオベーションで賞賛される彼らから、目を離さずに言った。その瞳が見つめているのは、彼らか、それとも俺たちの未来だけか。
「そうだね。正直あれを超えるのは難しい」
俺も素直に客観的な事実を述べた。
俺と凛は彼らと入れ替わりでリンクに入った。井上組の点数が出るまでのわずかな時間、その残された時間を使って、しっかりと氷の感触を確かめる。
一回転のアクセルジャンプで確認をしてからリンクの中央に戻ってくる。
「けどね、大輔」
凛の瞳は力強くて、真直ぐで。
「うん」
「勝つのは私たち」
井上組の点数がアナウンスされる。点数の脇にはPBの文字。PB――パーソナルベスト。つまり彼らはここにきて自分たちの記録を上書きしたのだ。
オリンピックという大舞台にいけるかどうか、そんな夢のチケットを目の前にして最高の演技をしてみせたその精神力は圧巻だ。認めるしかない。彼らは俺たちより何倍も強い。
だが、客観的に見れば絶望的な彼らのスコア見てなお、凛は眉ひとつ動かさなかった。その凛とした振る舞いに俺は改めて彼女の強さを認識した。
凛は、こんな状況でも、諦めてはいない。だからこそ信じることができた。だからこそ勝てると思った。
本気で勝利を信じているパートナー。なら、俺もそれについていくだけのことだ。
――今宵はクリスマスイブ<聖夜>。奇跡が起こる日だ。
『二番。君崎凛、王寺大輔』
俺たちの名前がアナウンスされる。会場からは、昨日をはるかに上回る大きな歓声。昨夜二人が起こした奇跡に対する賞賛と期待の表れだ。
俺たちは手をつないで、リンク中央へ進んでいく。
カメラマン。ジャッジ。観客。俺たちに向けられるたくさんの視線。それは今はまだある一定の暖かさを持ってはいる。けれど彼らは俺の仲間ではない。明確な他者。彼らは俺たちを助けてはくれない。
スケートとは、90×30メートルの広大なスケートリンクを、我が物にする競技。逆に言えば、ひとたび氷の上に立てば、誰も助けてはくれない。
孤独で、そして孤高な戦いだ。でも今、俺は一人ではない。
緊張は確かにある。それは絶対にぬぐえない。だけど、今はそれをコントロールできている。
ちょうど一年前の俺は、この全日本という舞台で無残な演技をした。あの時と今の俺は明確に違う。だって今、俺は一人じゃない。
凛と分かり合う前、俺にとって凛は重荷でしかなかった。あまりにも強大な彼女は、俺の憧れではあっても、仲間ではなかった。彼女が俺の人生の、スケートの全てだった。だから、失敗して彼女に迷惑をかけたらどうしようという思いが先行していたのだ。
でも、今は違う。
彼女が一緒に、暗く冷たいこの道を一緒に走っていくパートナーだって思えるようになったから。
今、君崎凛は俺にとって共に支えあう人になったのだ。だから、もうかつてのようにはならない。冷たくなったら、手を伸ばせばいい。俺の隣には、俺の緊張を溶かしてくれる、暖かい少女がいるのだから。
「いくよ」
「うん」
俺と凛は拳をこつんとぶつけた。それは魔法の時間が始まる合図。
トゥーランドット。まるでそれは俺たち自身の物語のようだ。冷酷で孤独なお姫さまと、恋に落ちた亡国の王子様の物語。
二人が歩んだ、二人で歩んだ、この一年間を全てぶつけて、演技に昇華させれば良い。
プッチーニのオペラ『トゥーランドット』。
北京の民よ――ドラマティックで印象的なイントロで物語が始まる。
プログラムはジャンプエレメンツ三連続から始まる。
これはカラフが突きつけられる三つの謎にかけている。
一つでも解けなければ処刑、そんな状況でもカラフは少しも恐れることなくトゥーランドットの難題に挑戦していく。
そんなカラフの気持ちに自分を重ね合わせる。
まずは三回転+二回転のジャンプシークエンス。
二人は一度も手をつなぐことなく、目線も合わせることなく、だけど完璧なユニゾンを保ったまま滑っていく。
まずはトリプルジャンプ。心で繋がった二人は、合図無しにまったく同時にターンした。そして右のトウを氷に突き刺し、跳び上がる。
難度の高いジャンプだが問題なく着氷、そしてターンを二つ挟んでそのままダブルアクセル。
大技に大きな歓声で答える観客。それはまるでカラフをはやし立てる群衆のようだった。
さらにもう一つ。トリプルフリップスロー。ペアのスロージャンプで使うにはかなり難しいが、今の俺たちにとってはなんてことない。
完璧な流れの中で、彼女のジャンプをアシストする。俺の手を離れた凛は虹のような軌跡をたどって再び氷上に舞い戻る。着氷も完璧。
いきなり高難度のジャンプエレメンツを続けざまに目の当たりにした観客は俺たちの物語に一気にのめりこむに違いない。
だが、ここまでは序の口に過ぎない。
問題はここから。
プログラム最大の山場。ソロジャンプ。奇跡の技――トリプルアクセル。
練習での成功率は七割五分だが、昨日は完璧に成功させたみせた。
調子は絶好調。
お互いに寄せる全幅の信頼が、俺の恐れを押さえ込む。
「行くよ」
「うん」
俺と凛は力強い視線を交わし、全てを賭したジャンプに向かっていく。
頭の中で描いた軌跡を辿る。
昨日起こした奇跡を辿るだけだ。
全てを左足に預けて跳び上がる。
わずか一秒のあいだに起きる1260度の回転。
そして二人は再び奇跡を起こすのだ――
その時。
何かが切れた。
それは運命の糸だったか。
それとも蜘蛛の糸だったのか。
俺は久しい感触を味わった。
会場に響き渡る悲鳴。
氷の冷たさが身体を襲った。
同時にお思い上がっていたその心が急激に冷やされていく。
転倒。
その事実を認識したとき、脳はそれを受け入れるのを拒否した。
俺の何もかもが止まった。




