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氷上には気高く美しい一人の女性がいた。艶かしく踊るカルメンに、ドン=ホセも観客も魅了される。
騒ぎを起こして捕まったカルメン。カルメンは看守のドン=ホセを誘惑して、逃がしてもらう。
カルメンの手を引くドン=ホセ。片手はつないだまま、もう片方を彼女のヒップに当てて、そのまま一気に頭上に持ち上げる、グループ3のヒップリフト。決して難しいリフトではないけれど、今日の完成度はかなり高い。
「酒場で落ち合いましょう」
それまで繋いでいた手を一度離す、それは冒頭の大技への準備。言うまでもなく、二人の未来をかけた技だ。
サイドバイサイドのソロジャンプ、トリプルアクセル。そもそも一人でさえ跳ぶのが難しい技。二人がまったく同じタイミングで跳ばなければならないペアのソロジャンプにおいて、その難易度はシングルにおけるそれの何倍、否何十倍にもなる。
前人未到の大技。成功すれば世界初となるが、その無謀な挑戦へのリスクは計り知れない。だが、今の俺に緊張は皆無だった。
君崎凛という甘い麻薬に犯された、この虚ろな体を動かすのは、反復練習によって培われた成功へのイメージだけ。
だんだん意識が研ぎ澄まされていくのを感じる。
静まり返った会場。本来、俺はこの静寂が何よりも嫌いだった。大勢が自分を見ている、たとえそれが期待の視線であっても、俺にとっては自分を突き刺す矢の雨でしかなかった。
だが今、俺の視界に観客はひとりもいなかった。見えるのは君崎凛という少女、否、カルメンという一人の女だけだ。他の何も見えない。観客も、ライバルも、恐れも。
身体がいつにもまして軽い。
無意識に体が動く。
運命のかかった一回に挑むのではない。千回繰り返した、その後の千一回目を行うだけ。たったそれだけのこと……
凛と目が合う。俺は凛の自信に満ちた瞳を見て確信した、失敗はありえないと。
前向き、左足のインエッジで長めの助走。そして右足で踏み込んですべての体重を移した瞬間、すべてが解き放たれた。
心の中で重なる二人の掛け声。
鏡のに映ったもう一人の自分のように。
二人の軌跡が重なる。
そして奇跡を起こす──────
まったく同時に跳び上がる。刹那の跳行。しかし、その一瞬が引き伸ばされて、まるでコマ送りでもしているように感じられた。
俺の目は二人の回転を完璧に認識した。
一回転、
一回転、
コンマ一秒のズレ。
二回転、二回転、
だがそれも徐々に無くなっていく。
三回転、
二人の回転は重なり────
────半ッ!!
静寂をその着氷が切り裂いた。
鼓膜を破るほどの歓声。
その現実が、カルメンの物語から二人を引き戻した。成功の瞬間、二人とも我を忘れて叫んでいた。そのタイミングまで完璧なユニゾン。
ペア競技で世界初、トリプルアクセルに成功──
俺はつながれた凛の手をしっかりと握りしめた。そのときの彼女の表情は、間違いなくこの一年で一番の、心からの笑みだった。
もう何も怖くはないよね。彼女の眼がそう言っていた。
味わったことのない高揚感。氷上で身体がこんなに軽くなったのは初めてだ。身体から重みが消えたようで、逆に怖い。
だがそんな俺とは違って、こんな時でも凛はやっぱり冷静だった。これが経験を積んだ女王の対応。
「演技は終わってないよ」
凛の一言で俺は再び演技に集中した。
そう、まだだ。
まだ終わってない。
これは夢への第一歩。
けれど大きな一歩だ。それだけは間違いない。
トリプルアクセルを決めてからはあっという間。体感的な演技時間は何分の一にも圧縮される。
スケーティングもどんどん乗っていく。
恋に取り憑かれた彼は、ただひたすら恋に燃え上がっていった。地位も婚約者も、全てを捨てて、カルメンの後を追う。
まずペアスピンとダブルツイストを難なくこなす。そして演技後半の見せ場。ステップシークエンスは軽快な音楽とともに。有り余った体力をすべて注ぎ込み、豪快にステップを刻んでいく。
だがドン=ホセにとっては全てを賭した恋でも、カルメンにとってはほんのお遊び。彼女はあくまで自由な女だから。
さようなら、私、新しい男ができたの。そんな風にカルメンは唐突に別れを告げる。
ソロスピン。心も身体もは離れた二人だけれど、その運命はひとつのまま回り続ける。
闘牛場で再会する二人。
「復縁しないなら殺す」
そう迫るドン=ホセに、カルメンは言い放つ。
「ならば殺すがいい」
逆上したドン=ホセは隠し持った短刀でカルメンを突き刺す──
鮮血が彼女の衣装を伝う。倒れたカルメンを、ドン=ホセは抱きとめた。鐘の音がリンクに響き渡る。最後の一音を目を閉じて聞き届けた。




