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俺のこわばった肩に凛の温かい手が優しく添えられた。
「緊張してる?」
凛のその顔はおなじみのポーカーフェイス。だけれど、その表情はいつもよりほんのちょっとだけ暖かいように思えた。
「ごめん」
この状態でごまかすことはできないと、俺は正直に答えた。謝る俺を前に、凛は微笑んだ。普段ほとんど笑わない凛の、その笑みに俺は目を見開いた。
「大丈夫。観客のことなんて忘れて。五輪のことなんて忘れて。そして――」
そんなの無理だよ、心の中でそう思った、次の瞬間、息が止まった。頭から全てが吹き跳んだ。
引き寄せられた上半身。頬に触れた温かい感触。ほんの一瞬の出来事。
「私だけを見て」
顔の目の前に彼女の小さな顔があった。スケート靴ほどもない二人の距離。上目遣いと、ほんのり染まった頬。
心を奪われた。視界から背景が消えた。観客が消えた。緊張が消えた。
俺の心の中に君崎凛という少女だけが残った。
俺はなんの感情も持たず、現状を客観視した。一万の観衆が、さらには多数のカメラを通して日本全国がリアルタイムで見守る中、年頃の少女、それも国中の期待を集めるシンデレラが、冴えない下僕の少年の頬に口付けをした。海外ならともかく、ここは日本で、ましでその当人が日本人同士とあっては、言い訳は出来ない。そのキスが挨拶のそれではないのは明白なことだ。当然他人の反応は、困惑しかありえない。
だが、その状況にたいして、俺は何の気持ち持たなかった。
感覚が麻痺しているのだ。彼女さえ持ったことのない、冴えない男に、美少女の口付けはあまりに刺激的過ぎた。
「行こう」
やさしく微笑みながら凛は俺の手をとった。柔らかい、けれど力強い。そんな不思議な暖かさに包まれ、俺は前を向いた。
君崎凛&王寺俺組のショートプログラム。曲はビゼーのオペラ『カルメン』。
強い女性カルメンと、それを一途に追いかける男ドン=ホセの情熱的な恋愛を描く、あまりに有名な悲劇。
気高い凛。それを追いかけてきた俺。その関係は、カルメンとドン=ホセのものにどこか似ている。だが、今までドン=ホセのとった過激な行動だけは少しも理解できなかった。気が狂うほど強い愛なんてあるものかと、心の中ではそう思っていた。
だけど、たった今俺は、本当の意味でドン=ホセの気持ちを理解した。
ドン=ホセと俺はいっしょなんだ。『カルメン』は、一人の美しい女に心を奪われた平凡な男の物語だ。
人が誰かに心を奪われるとき、それによって自分の歩む道を決定付けられる。例えば、君崎凛という一人の少女に出会ったとき、俺が人生をかけて五輪を目指そうとしたように。
ドンホセも同じなのだ。カルメンに出会った彼は、激情の道を歩んでいくことになる。
たまたまそのベクトルが違っただけのことだったのだ。




