3-09
君崎凛がスケートを始めたのは五歳のときだ。ありがちな話で、たまたまリンクに連れて行ってもらったことがきっかけでスケートを習い始め、スケートの魅力にのめりこんでいった。
百年に一人というレベルの才能の持ち主であった上に、類まれなる努力家でもあった。毎日朝から晩まで練習に励み、彼女はみるみるうちに上達していった。
十歳で全日本ノービス選手権優勝。
十三歳で全日本ジュニア選手権優勝。
十四歳で世界ジュニア選手権優勝。
十五歳でグランプリファイナル優勝。
十六歳で世界選手権優勝。
まさに天才少女。スケートの申し子。その活躍にスケート界のみならず日本中が驚かされた。
だが、彼女の才能を見出した長坂コーチには、ひとつだけ気がかりなことがあった。
凛には信頼できる家族も友達もほとんどいなかったのだ。父親は大企業の跡取りで自宅にはほとんど帰らなかった。母親はそんな夫に愛想をつかせて凛が六歳のときに男を作って家を出て行った。さらにスケートにのめりこむあまり、普通は子供がしているであろうこと、テレビを見るとか、おままごとをするとか、そういうことを一切しなかった。もともと引っ込み思案だったことも災いして、凛には友達がほとんどいなかったのだ。
「それでもね、たった一人だけど、信頼できる友達がいたの」
それは同じリンクに所属していた同い年の少女だったらしい。同じ年にスケートをはじめ、互いに切磋琢磨し練習に励んだ無二の親友。凛がその子と過ごした時間は、父親や母親とのそれよりも遥かに長かった。
「でもね、その子は大人で、凛はまだ子供だったの」
やがて凛とその親友との間には距離が生まれていった。それは、どうしようもないものだったのだ。その子は普通の少女だった。確かに努力家だった。けど、凛ほどの才能は持っていなかった。
凛が全日本ノービス優勝したとき、親友は二位だった。
凛が全日本ジュニアで優勝したとき、親友は三位だった。
凛が世界ジュニアで優勝したとき、親友は大会の出場権さえ得られなかった。
凛がグランプリファイナルで優勝したとき、親友はグランプリリーズにさえ出られなかった。
その親友は間違いなく努力家だった。
そして凛にとって最悪なことに──彼女は大人だったのだ。凛とは違って、自分にはスケートで一生食べていけるほどの才能がないことに気がついてしまったのだ。
彼女がその現実を前にして、取った行動は、十五歳の少女にしては、あまりにも現実的だった。
「その子はね、勉強に励んだ。県下一番の高校を目指してね」
スケートでは食べていけない。ならば勉強しないといけない。夢では食べていけない。普通十五歳でそのことに気がつく子供はなかなかいないだろう。いや、気がついたのだとしても、それを直視するのは難しい。
けれど彼女は大人だった。こうして、今まで何よりも大事だったスケートは彼女にとって《一番》ではなくなったのだ。
「でも凛にしてみれば、それは《裏切り》だった」
凛は親友に詰め寄った。何でもっと努力をしないの。救いがたいことに凛は自分の才能を否定していた。自分は才能ではなく、努力でここまで上り詰めたのだと思い込んでいた。
確かに、凛は他のなによりもスケートを優先してきた。だけど、それだけで世界の頂点が取れるほど、スケートは甘くはない。実際には、凛が頂点まで上り詰められたのは、努力だけでなく、類まれなる才能があってこそだった。
けれど、自分は努力によってのみ成功したと勘違いした少女は、親友はこう断罪した。――努力が足らないから、あなたは勝てないの。
間違っていたのは、言うまでもなく凛のほうだった。親友は死ぬほど努力をした。けれど才能が足りなかったのだ。だから現実を認めて、自分が勝てる分野、つまり学業で死ぬほど努力をし、そして結果を出したのだ。
親友はどこまでも大人で、凛はどこまでも子供だった。結局二人には生めることの出来ない溝が出来てしまった。
そして凛が世界選手権で優勝した年、彼女の親友だった少女は、スケートを止めたのだ。
「あの子は一つしか選べない子なのよ。スケートも友達も、全部選べばいいのに、スケートと友達が一緒じゃなきゃだめ。しかも自分の隣にいないとだめ」
意味がわからない。なんでそうなってしまうんだ。スケートをやめたって、友達は友達でいいじゃないか。なのにどうしてそうなる。まったく理解できない。
「もうわかった? あの子が、何で突然ペアに転向したのか」
俺はその問いにうなずいた。新しい境地を切り開きたかったとか、自分を逆境に追い込みたかったとか、そういうことではなかったのだ。ただ単に凛は……一緒にスケートをする仲間が欲しかったのだ。
「さっきあの子の部屋に行ったとき、なんとなくだけど事情は聞いたわ」
俺はうつむいた。気がつけば、頼んだアイスコーヒーも汗をかいていた。
「大輔君、私はね、悪いのはあの子だってわかってる。あの子はね、馬鹿なの。スケート以外は何も持ってないしわかってないの。何も。本当に何もね。あの子は本当に馬鹿だから、いまだに信じてるの。少年漫画の主人公よろしくね。どんなことだって努力で乗り越えられるって」
努力は必ず報われる。たぶん君崎凛という類まれなる才能の持ち主であれば、それはそうなのかもしれない。
けれど、ペアは一人では出来ない。彼女一人がどんなに強くてもだめだ。俺に、彼女の夢をかなえてあげる力はない。
「大輔君。これは、あなたに失礼な言い方になるかもしれないけど、凛に遠慮していない? 私にはそう見える」
「……そりゃ、仕方ないじゃないですか。相手は元女王の天才少女で、自分はまともに演技も出来ない《練習王子》。つりあうと思うほうがどうかしてる」
「でもね、それは間違いよ。ペアってのは一人じゃ出来ないの。シングル選手としての実力や栄光は一切関係ない。大事なのはパートナーをどれだけ思いやって、どれだけ一緒にいい演技をしようって思えるかなの。もし、いい演技が出来ないんだとしたらその責任はどちらか一方にではなく、二人にあるのよ。まったく平等にね。だから現状に責任を感じる必要はこれっぽちもない」
それはコーチの本心なのだろう。けれど、今の俺に同意できるはずがなかった。
「明らかに足をひっぱているのは俺です。それは紛れもない事実だ」
「それはは違う。あなたはね、あの子を神格化してるだけ。あなたには凛を救う力がある。そしてそれはあなたがトリプルアクセルを跳ぶことじゃない」
俺に、一体どんな力があるっていうんだ。
「だってあの子が今本当に求めてるのはね、誰かと一緒にいることなの。ソチオリンピックに行くことじゃないわ」
俺は耳を疑った。信じられない。凛にとっての一番が至高の座ではないなんて話。だって彼女は今まで、オリンピックという舞台を目指して死ぬほど努力をしてきたのだ。
「大輔君、五輪はね、ソチだけじゃないの。まだ君は十六でしょ。四年後、八年後、もしかしたら十二年後の五輪だって十分に狙える」
だけど、次の長坂コーチに言葉を聴いて、俺はその意味を一応は理解した。
「人生を、ともにあるんでくれるパートナー。それが今の凛が望む唯一のもの」
だけど、それが《自分》だとは思えなかった。
「君崎凛って言う、どうしようもないお馬鹿さんの、一生のパートナーなんて、十六歳のスケーターには重過ぎると思う。だからここからどうするかは大輔君の自由」
「……長坂コーチは、凛が望む《パートナー》じゃないんですか?」
「半分はそうだけど、半分はそうじゃない」そういうコーチの顔はどこか悲しげだった。「凛はね、独占欲が強いの。両親って言う、誰よりも自分のことを考えてくれる人に恵まれなかったからね」
「私はたくさんの生徒を持っている。もちろん凛は大事よ。でも、あの子だけを特別扱いは出来ない。あの子の《家族》にはなってあげられないの」
家族、か。俺の親も仕事漬けで海外を跳び回っているから、会うことが極端に少ない。けれども、別に愛してもらってないわけじゃない。少ないけど家に帰ってくれば仲良く話もできる。
でも、彼女はそうじゃない。今の彼女には一人として信頼できる《仲間》がいないのだ。
それはたぶん彼女が悪い。彼女がの基準が厳しすぎるのだ。彼女にとって《仲間》とは、自分だけを見てくれて、自分と一緒にスケートをしてくれる人なんだ。
どうしようもなく身勝手な話だ。お互いがお互いしか見ていない、そんな関係はただの依存でしかない。けれど、凛にとって、それこそが《仲間》なのだ。
今なら、リンクに天野が来たときに、凛が怒っていた理由がわかる。不安だったのだ。自分にとって《パートナー》である俺に、自分以外の《仲間》がいるんじゃないかって。
「馬鹿げてる」
俺は思わずそうつぶやいた。
「ええ、そのとうりよ」
コーチは優しい口調で同意した。
「本当に……馬鹿げてる」
そんな馬鹿なヤツを、全力で支える。どうだろう、俺にそれができるだろうか。
簡単じゃないのだけは確かだ。だけど、俺は思った――一緒にいてあげることなら、練習王子の俺にでもできるかもしれない。
気がつけば、迷いとか、怒りとか、そういう感情はどこかに消えていた。代わりに生まれたのは、自分にも出来ることがあるという思い。
「俺、凛と話したいです」




