3-08
凛の家は、リンクから十分ほどの場所にあった。特徴のないアパート。外から見るとかなり綺麗で、そこそこ新しいようだ。たぶん学生の一人暮らしとしてはかなり良い部類に入るだろう。だが、超有名企業がスポンサーについてCM出演も少なくはない、国民的な少女の、その住居にしては地味だという印象を受ける。
女の子の一人暮らしにふさわしくそれなりのセキュリティーが確保されているようだ。エントランスのインターフォンで相手を呼び出して鍵を開けてもらわなければ居住フロアに入れない仕組みになっている。
俺はコーチに教えてもらった部屋番号をダイヤルする。だが反応はなかった。ドアが開く気配はない。まぁコーチが行ってもだめだったのだ。喧嘩相手ならなおさら会ってはくれないだろう。
そこには、ちょっとだけ安心してしまう自分がいた。今尚、彼女とどう話していいのかわからないからだ。根本的には、問題の先送りでしかないが。俺は早々に諦めて、エントランスを後にすることにした。
自動ドアをくぐると、さっきはなかったものがそこにあった。アパートの前に止まっている一台の軽自動車。他人ながらレッカーされたりしないかなと心配しながら横を通り過ぎようとした。その時車窓が開き、そこから一人の女性が顔をのぞかせた。
「あなた、王寺大輔君ね?」
「はい、そうですが……」
その顔には見覚えがある。長坂智子コーチ。数々の日本人をメダリストに育て上げた名コーチだ。おそらくスケート関係者なら誰もが知っているだろう。いや、いまやスケートに興味のない人間でも顔くらいは知っているはずだ。長年、あの君崎凛のコーチだったのだから。まだ幼い凛の才能を見出し、世界女王にまで育て上げた一流コーチ。年は四十代半ばだが、レディとしての気品は失っていない。赤ぶちの眼鏡が似合う大人の女性。
しかし多忙な一流コーチが、何故こんなところにいるのだろうか。彼女の所属するリンクは東京にある。特にイベントがあるわけでもないのに千葉にいる理由が分からなかった。
「凛の家に寄ってきたの?」
「あ、はい」
「そう、じゃぁ私と一緒ね。私もさっき凛の家に寄ってきたの」そういって、助手席においてあった買い物袋を指差した。中のスポーツ飲料が透けて見える。「差し入れを買ってきて、ちょうど帰ってきたところ」公私とも面倒を見てくれる面倒見の良い人として有名な長坂コーチだが、その評判は嘘ではないようだ。「ちょうどよかった。リンクに寄って君と話をしようと思ってたところなんだ。ちょっとその辺のカフェでお話できるかな?」
思わず身構えてしまう。俺は、凛にとっていいパートナーじゃない。彼女の時間を無駄にしていると責められてもおかしくはない。
「あ、はい……」
後方座席に乗せてもらい、近くにあるカフェに向かった。一年前、カップル結成を承諾したあのカフェだ。車に乗ってから、カフェの席に着き、注文を済ませるまで、俺は無言を貫いた、というより自然と無口にならざるをえなかった。話したことない人と雑談ができるほどの会話力は持ち合わせていない。
だから、先に口を開いたのは長坂コーチだった。
「ちょっと長い話になるんだけど、いいかな?」
「はい、大丈夫です」
本当なら、試合が近いこの時期、他人と長話をするような時間はない。だけど練習しようにも肝心の相方がいないのだ。
「たぶんだけど、大輔君は凛のことほとんど知らないんじゃない? スケーターじゃない、一人の子供としての凛のことは」
「……凛は何も話してくれませんから」
俺は思わずそんな風に言い訳めいた、あるいは非難めいた反応を返してしまったが、相手には俺を非難するつもりなどないことに後になって気がついた。幸い長坂コーチが特に気を悪くしたようには見えなかったが、それでも子供じみた行動をとったことを後悔した。
「そうでしょうね。あの子はね本当に追い詰められないと、自分の弱い部分をさらそうとはしないから」
弱み。確かに、その言葉は凛には無縁であるかのように思える。けれど、よく考えてみればそんなことはありえないのだ。世界の頂点を取り、そしてまたもう一度そこに行こうとしているような人が、なんの悩みもなく生きているはずがない。
「十年以上付き合ってきた私にさえ、何でも話してくれるってわけじゃないの。それでも、たぶん私が世界で一番彼女のことを知っている」
コーチは運ばれてきた紅茶を一口だけ飲んだ。
「聞いてくれる? 凛の今までの人生の話を」
俺は黙ってうなずいた。
俺が、ずっと目標にしてきた君崎凛。今は喧嘩中だし、これ以上彼女とペアを続けても上手くいくとは思ってない。しかし、それでも、彼女が俺にとって生きる意味、スケーターである意味であることには変わりがない。
だから、やっぱり知りたかった。君崎凛という、謎の包まれた少女の過去を。




