3-07
通い慣れたその道は、混沌とした心中を整理するには短すぎた。一体何を期待しているのかも分からないまま、リンクにたどり着く。
どこかで立ち止まりたかった。何の意味もないと知りながら、時間を稼ぎたかった。だけど、リンクの門、受付、通路、どこも立ち止まっているには不自然な場所ばかり。結局その最後の場所は更衣室になった。
早朝の更衣室は無人で、立ち止まるのにはちょうどよかった。俺はバッグをロッカーに置き、着替えを取り出して、そこで動作をやめた。ベンチに座り込む。一体どんな顔をして凛に会えばいいのだろうか。果たして凛はどう思っているのだろうか。もちろんそれを確かめに来たのだ。考えたところで何の意味もない。けれど、そのときを前にして、頭の中をめぐるのは言い訳ばかりだった。
三十秒ほどか。無言不動には長すぎる沈黙。それを廊下から聞こえてきた足音が中断させた。いつまでもこんなところで座っていれば、怪しまれる。時間稼ぎもこれで終わり。
俺は更衣室に入ってきたリンクメイトに、出来る限りポーカーフェイスで挨拶をして、リンクへ向かう準備を再開した。
心臓が高鳴るというよりは、むしろ締め付けられるような、身体が縮まるような。いっそのことそのまま消えてしまいたい。身体全体に気まずさという名の泥がまとわりついて気だるい。寒気はしないから風邪のせいではないのは明白だった。
最後に残された時間もあっという間に過ぎる。着替え、スケート靴に履き替え、更衣室を出て、そしてリンクのドアの前に立つ。半透明なドア。この戸を開ければ、凛がそこにはいるだろう。俺はそこで立ち止まった。時間にして三秒。最後の最後に残されたその短い時間で俺は決心してドアを開けた。
静まり返ったリンクに、ガラガラというチープな音が鳴り響いた。見渡しても、そこにいたのは僅かに二人のスケーター、それと神埼コーチだけだった。あの二人は東日本大会に出場予定なので、特別に朝から練習を見てもらっているんだろう。
コーチが俺に気がついて、手を振りながらこちらに滑ってきた。
「大輔、風邪は治ったのか?」
「だいぶ。熱も下がりましたし」
「それはよかった」
大輔は意を決して、自らそれを尋ねた。
「ええっと、凛はどうしてますか?」
コーチの顔が曇った。
「この二日リンクには来てないよ」
「それじゃ、どこか別のリンクへ?」
「いや、ずっと家にいるらしい」
そんなばかな。寸暇を惜しんで練習に励む練習ホリックである君崎凛が、二日も練習しないなんてことがありえるのだろうか。
「メールには返信ないし、電話にも出なくてな。実家にもかけてみたんだがそちらもでない。心配になって様子を見に行ってみたんだが、一応家にはいた。とりあえずは安心しろ」
白状かもしれないが、それを聞いたからといって、俺の中に安心感が広がるなんてことはなかった。決して心配していないわけではないが……。
「だけど中には入れなかった。大丈夫だからといわれてしまっては、帰るしかないからな」
「ちゃんと食べてますかね」
凛の食事は外食中心だ。家で食べたとしてもせいぜい近所のスーパーで出来合いの惣菜を買ってくる程度らしい。だから自宅にまともな食べものがあるとは思えない。
「いろいろ心配だから、一応手は打ったんだが」
「どんな?」
「たぶん世界で一番凛を理解している人を呼んだ」
普通に考えれば、親だろうか。まぁそれなら安心だろう。
「それより、お前たちどうするんだ?」
コーチは険しい表情をした。そりゃそうだ。全日本大会まで時間がない。一日サボるだけでスケーターの勘は鈍ってしまう。最高難易度の技は、いわばトランプタワーの上に成り立っているのだ。積み上げるのは大変だが、崩れるのはあっという間。練習不足はもちろん、なんでもないことで崩れ去ってしまう。トップスケーターというのは、それほど繊細なものなのだ。
練習をしないというのは、自分でトランプタワーを崩すようなものだ。
「どうすればいいんですかね」
だけど、俺にもどうすればいいかなんてわからなかった。無理と分かっていて五輪を目指すべきなのか。彼女とのペアを続けるべきなのか。よしんば五輪を目指すとして、果たして《練習王子》の俺はどうすればいいのか。
どの選択をするにしても、どうやってそこまでいけばいいのか見当がつかなかった。
「それは、お前たちが決めることだ……二人でな」
……やらなくてはいけないことは明白だった。
カップルってのは二人で一つなんだ。確かに、俺は解散しようといった。けれど、少なくとも凛はそれをまだ承諾していない。ということは、俺たちはまだカップルのままだ。
だから、二人で話し合わなくちゃいけない。会わなくちゃいけない。
「お前一人で悩んでても、なにも決まらないぞ」
確かにそれはそうだ。
今凛と話すのは怖い。けれどこのままだと、心にたまったものはもっと重くなっていくだろう。それなら、いっそう早くケリをつけたほうがいいのかもしれない。
「とりあえず、凛の家に行っみます」




