3-05
「あちゃぁ……38度。こりゃ風邪だね」
これほどの高熱が出たのは、たぶん十歳の時にインフルエンザにかかって以来だ。それ以後、小さな風邪にかかることはあっても、スケートを休まなければいけないほど体が重くなったことはない。
お天道様が昇っている間に、こんな風にベッドに横たわっているなんて。今まで密度の高い毎日を過ごしてきてそれが当たり前になっていたから、学にこんな風に何もしないでいる時間に違和感を覚えた。
「お兄ちゃん、入っていい?」
ドアの向こうから、妹がお粥を持って現れる。仕事で忙しい両親に代わって、妹が俺の面倒をみてくれている。父はもちろん母も本当に多忙で、俺が倒れたからといって、つきっきりというのは不可能だ。妹が居なかったらと思うとぞっとする。俺は今までの人生で一番妹の存在に感謝していた。
「だいじょうぶ?」
「うん、薬効いてきた。熱もか成り下がったよ」
「よかった。食べられそう?」
「うん、まぁなんとか。ありがとう、わざわざ」
未央は返事の代わりにほほえんだ。
「熱いから気をつけてね」
「うん」
「あ、もしかして、私に食べさせて欲しい?」
「バカ」
そんな冗談にちょっとだけ元気が出た。
そのとき、家の中にチャイムが鳴り響いた。
「ん、誰かな? ちょっとみてくるね」
そういって未央は部屋を出ていった。俺は気になるのでお粥を食べるのを中断して、耳を澄ませた。ここからだと、来訪者の言葉は聞こえない。けれど妹の声は聞こえた。
「あ、はい。今はちょっと熱が下がってるから大丈夫だと思いますよ」
俺の話をしている。ということは、知り合いの誰かがお見舞いにきてくれたのか。まっさきに浮かんだのは、神崎コーチ。それからもしかしたら天野って可能性もあるったりするか。そんな風に考えていたから、来訪者の声が聞こえたとき、俺は心底驚いてしまった。
「お邪魔します」
はっきりとした声。ほかの誰でもない、君崎凛のものだった。
「お兄ちゃん、君崎さんがお見舞いにきてくれたよ。入って良い?」
「あ、あぁ」
突然のことに心の整理もつかないまま扉が再び開いた。現れたのはジャージ姿の凛。おそらくは練習帰りだろう。
未央は気を使って「何かあったら呼んでね」とそれだけ言って部屋を去った。
部屋に、二人取り残される。二人きりという状態と、大事な時期に体を壊して練習ができないという申し訳なさとで息苦しかった。
「あの、本当にこの大事なときに、こんなことになってごめん」
俺はまっさきに謝った。本当にただでさえ五輪にいける可能性は低いという状況で、練習ができないなんて、本当に洒落にならない。凛はあくまで無表情だったが、心の中では焦ってるだろう。
「別に大輔に落ち度はないでしょ。私だって風邪くらいかかる」
それを聞いて少しだけ気が楽になった。体調管理もスケーターの務め、それが出来ないのは自己管理能力が足らない……なんていわれると思っていたから。
「うん……」
「熱はどう?」
「なんとか。昨日はかなりやばかったけど、今はだいぶよくなってきた。薬が効いてきたし。もう熱も多少下がったよ」
そして、俺は次の一言で彼女の心意に気がついた。凛は俺のことを心配してそう聞いたのではなかったのだ。
「それじゃぁ明日から練習できそうね」
自分の耳を疑った。熱が俺に幻聴を聞かせているのではないかと思った。
「いや、まだ練習できるほどの体調では……」
「出来なくてもやらないと。全日本まで時間がない」
彼女は、冗談でもなんでもなく、真剣にそういっている。俺はそのことにカチンときた。
「それと、学校ももう休んでスケートに集中してね」
「そんなの無理に決まってるだろ」
俺がそういうと、凛の表情が変わった。それは凄く小さな変化だった。けれど、五輪への夢が奪われそうになったときでさえ、無表情を貫いたのだ。その小さな変化は、けれど大きな変化だ。
「何で無理とかいうの? それは大輔の決め付けでしょ」
凛は明らかに怒っている。顔を赤くしたりはしない。けれども、彼女は明らかに苛立っていた。だが、それ以上に俺も腹が立っている。
「無理に決まってんだよ。一年で五輪なんて無理に決まってる。だから――」
それは刹那的な思いではなかった。この一年実はずっと思っていたこと。けれど胸の奥にしまっていたこと。絶対に言ってはいけない。思うことさえ駄目だと封印してきたこと。
けれど俺はそれを口にしてしまった。
「俺じゃ力になれない。ペア……やめよう」
俺の言葉を聴いた瞬間、凛は絶句した。どんなときも前を向いていたその瞳が、鋭さを失った。そして、彼女は勢い良く部屋を跳び出していった。
なんだろう。俺の怒りは一体誰に対してのものなのだろう? 無茶を言う凛に対して? それとも不甲斐ない自分に対して? わからなかった。
ただ、一つだけわかったのは。
ようやく俺は重圧から解放されたのかもしれないということだけだ。




