3-04
試合から数日後、協会から正式に、全日本選手権が五輪代表の最終選考となることが伝えられた。携帯でその報を聞いたコーチはふうと息を吐いた。
「なんとか首の皮一枚繋がったな」
だが、本当に首の皮一枚だ。五輪への道は果てしなく遠い。いずれにせよミニマムスコアは取らなければならない。そしてなにより、井上組に勝てなければ意味がないのだ。正直なとこ、今のままでは勝てる見込みゼロだ。
「今回の試合は、完全に調整不足だった。まだ技も完成してない、フリーなんてようやく通してできるようになったばかりだ。気にしても仕方がないさ。とにかく全日本まで頑張ろう」
コーチはそういうが、少なくとも俺には準備不足だけが負けた理由だとは思えない。
そして、凛が言葉を発したことによって、ここにいる三者三様に、負けた理由を考えていることがわかった。
「練習時間を増やしましょう」
凛の提案は狂気じみていた。
「これ以上?」
実際、今でさえぱんぱんなのだ。自由な時間はほとんどない。家とリンクと学校を行き来するだけの短調で過酷な毎日だ。俺の練習時間は午前二時間、午後五時間、計七時間。学校に行きながらこれだけの練習をこなすのは相当ハードだ。
確かに、練習時間は凛の方が長い。でも、この場合凛のほうが異常なだけだ。一流のスケーターでも一日四時間くらいが普通なのに、最近の凛は十時間も練習してる。
はっきりいって熱心を通り越して狂っているとしか言いようがない。だが、凛は鋭い瞳を俺に向けて言った。
「学校行くのやめれば良い。そんな暇ない」
その言い方には、さすがにイラっとした。
「俺にとっては学校も大事なんだよ」
「学校なんていってる場合じゃないでしょ。これからは練習に専念して」
「学校なんてってどういうことだよ」
「私たちはスケーターでしょ。優先順位を考えてって言ってるの」
「第一これ以上練習してどうすんだよ。量増やせばいいってもんじゃないだろ。効率が悪くなる」
「効率なんてのは量の後についてくるのでしょ」
だんだんお互い発言のペースが速くなってきたところで、コーチが仲裁に入る。
「おいそれくらいにしろ。とにかく冷静になれ」
コーチは準備不足。凛は練習不足。試合結果の原因を、二人はそれらに求めた。
だが実際のところ、そのどちらでもないのは明白だ。理由は全て俺自身にある。
練習すればどうにかなる。そういう問題じゃない。俺が《練習王子》だからなのだ。練習時間が足りないんじゃない。努力の問題じゃないのだ。
けれど、凛はそう思っていない。単に、お前の努力が足りないから、そう言っているのだ。だから腹が立った。学校に行くか否かは、俺たちの演技にはまったく関係ない。
「コーチ。それと、もう一つ提案があるんですが」
「なんだ?」
「トリプルアクセルをやりましょう、ソロジャンプで」
アクセルジャンプ。六種類の中で唯一前向きに跳ぶジャンプ。ジャンプは全て後ろ向きで着氷するので、必然的に半回転他よりも回転数が多い。そして、その半回転が、他の五種類に比してとてつもなく高い難易度の原因である。
中でも三回転半、トリプルアクセルは、男子シングルにおいては勝敗を分けるジャンプだ。女子シングルにおいては、百年の歴史を通しても、片手で数えられるほどしか跳べるものがいないほどである。トリプルアクセルが跳べる唯一の女子選手だった君崎凛がペアに転向した結果、現在女子シングルでこの技を見ることはない。
そしてペアにおいては……皆無だ。難易度が高すぎて、挑戦する選手さえいない。
ペアにおいて、トリプルアクセルは前代未聞の技。
だが一方で、俺たちにとっては、理論上不可能な技ではない。
トリプルアクセルは、類まれなる才能を持った選手にしか許されない至高のエレメンツだ。そもそもジャンプの才能に劣るものがペアに転向するのだ。普通シングルで一流の選手はわざわざペアに転向したりはしない。よって、シングルでも一流のものしか跳ぶことが出来ないトリプルアクセルを、ペア選手が決めるなど普通はありえないのだ。よしんば男が跳べたとしても、女が跳べることはまずない。だって、今この世の中で、トリプルアクセルを跳べる女は、たった一人しかいないのだから。
だが、そのたった一人のトリプルアクセルジャンパーが、今ここにはいる。今この世界で、トリプルアクセルをソロジャンプで跳ぶために絶対に必要な条件、それは、カップルの片割れが、唯一無二の天才君崎凛であること。つまり俺は、世界にたった一つしかない、トリプルアクセルを跳ぶための鍵を手に入れているのだ。
だけれど、それは必要条件ではあるが、十分条件ではない。
「ルッツも無理なのに、アクセルなんて決まるか……」
この間の試合では、トリプルルッツでさえ跳べなかったのだ。ルッツより遥かに難易度の高いアクセルをどうして、五輪への出場をかけたたった一度の本番で決めることが出来よう。
「やってみたいとわからないでしょ。それに練習での成功率を考えれば、不可能じゃない。これから練習していけば、必ず本番に間に合う」
凛は断言したが、俺にはそうは思えなかった。
だが一方で、井上組に勝つためには、それが絶対に必要であることもわかってる、
「今の私たちじゃ、仮に完璧な演技をしたとしても、井上組には絶対に及ばない」
一つ一つのエレメンツにしても、全体の演技にしても、現状俺たちは井上組に到底及ばない。それでも、井上組を倒そうというのなら、天地がひっくり返るほどのなにかが必要だ。そして、唯一可能性があるとしたら、トリプルアクセルしかない。
「……とりあえず練習しよう」
俺はいったん議論を打ち切る宣言をした。
分かっている。もし本気で井上組に勝ちたいのなら、トリプルアクセルは絶対に必要だ。
けど、今のままじゃ、トリプルアクセルを本番で成功されられる可能性はゼロだ。やってみなきゃわかんないとかそういう問題じゃない。
殊この問題に限って、理論上出来るという話は通用しない。
何故なら、俺が《練習王子》だから。




