3-02
北欧の風は冷たかった。
フィンランド。本日の気温は五度。日本はまだ残暑なだけによりいっそう冷たく感じる。
俺たちは今、首都ヘルシンキにいる。夢への第一歩。一つ目の難関に挑戦するためにやってきた。
フィンランディア杯。ISU公認大会で、ここで一定の成績を収めると、オリンピックや世界選手権といった国際大会への出場資格を得ることが出来る。
そして俺たちは、今大会でミニマムスコアを取らなければならない。それができなければ、五輪代表の切符は井上姉弟組のものになる。それがスケート連盟が俺たちに課した条件だ。
これは相当高いハードルといえる。ISUが発表した今期のミニマムスコアは例年通り厳しい。ショートの技術点で20、フリーで40点以上。
これは世界選手権や全日本選手権に出場経験がある選手であっても、当日の出来次第では、簡単に下回ってしまうの点数だ。
『選手の皆さんは六分間練習を開始してください』
六分関練習は演技前に行われ、選手にとっては最後の調整を行う貴重な時間になる。
俺と凛は、コールされると一番乗りでリンクに跳び出してウォームアップを始めた。このとき、そのグループの選手が一組ずつ紹介される。俺たちの名前が呼ばれたとき、会場が一際大きな歓声で包まれた。
もちろん、その歓声は自分に向けられたものじゃない。今日、誰よりも会場の期待を、もっといえば世界中の期待を背負っているのは、君崎凛という少女なのだ。
若干十七歳で世界女王になり国民的な人気を獲得し、その後ペアに転向したが一年競技会に現れなかった。そんな彼女の復帰戦。スケートファンのみならず、日本を騒がす美少女。その相方である俺は注目こそ集めているが、別に期待はされてはいない。
むしろ、演技が低い評価を受けたとき、今度はメディアの目が、世間の目が、一体誰に向くか──
次の瞬間俺の視界がぐらついた。そして失ったバランス感覚を取り戻すことができず、そのままひざをついてしまう。それを見て、凛は何も言わず、無言で手を差し出した。一切感情を見せない。それを見て、さらに緊張が増す。
失敗は出来ない。その思いだけが強まり、重くなり、そして肩に圧し掛かる。
気がつけば練習時間は残り一分。俺たちは第一滑走なので、他の選手と違って練習を早めに切り上げなければならない。六分間練習が終わりと同時に第一滑走の演技が始まるため、休憩の時間を六分間練習の時間内にとる必要があるのだ。
「焦る必要はない」
神埼コーチは落ち着いた貫禄のある笑みを湛えて俺の肩を叩いた。
「はい」
やがて、残りの一分も過ぎ去ってしまう。まだ演技は始まってないのに、俺の心臓は既に高鳴っていた。
焦る必要は無い――俺にはそうは思えなかった。今日の演技には、五輪に挑戦できるかどうかが懸っている。もし失敗すれば、五輪の代表選考に挑戦する権利さえ失ってしまうのだ。
「リプレゼンティングジャパン――」
名前がコールされ、会場が沸き立つ。俺たちは手をつないで進みながら、形式的に会場の声援にこたえた。
高鳴る心臓。まだ演技は始まっていないのに、既に身体には徒労感がある。
運命を決めるのは二つのジャンプだ。
一つはソロジャンプ、トリプルルッツ。
もう一つはスロージャンプ、トリプルサルコウ。
ソロジャンプでは、二人並んで同時に同じジャンプを跳ぶ。
一方スロージャンプでは、女性が跳ぶ時に男が投げてジャンプをアシストする。つまりジャンプを跳ぶのは女性だけだ。
失敗するとしたら、俺が跳ばなければならないトリプルルッツだ。ルッツは難しい。決めればデカイが、失敗する可能性も高い。それにペア転向後初めての試合で全てが初めてという不安もある。
……だけど大丈夫だ。自分に言い聞かせる。例えルッツで転倒しても減点はマックス4点。跳びさえすれば、ぎりぎりで20点確保できるはずだ。
だが同時に、最悪の展開が頭をよぎる。もし回転不足になったら? もしくはすっぽぬけてトリプルがダブルになったら? シングルになったうえに転倒でもすれば得点どころかマイナスだ。
うつむく俺の右手を、凛がしっかりと握った。
「いこう」
「うん」
音楽が流れ出す。ビゼーのオペラ『カルメン』。
『アラゴネーズ』の劇的な冒頭から演技が始まり、すぐに曲調は大人しくなる。
シンプルな振り付けから直接最初のジャンプへ。俺たちの運命を左右する大技、トリプルルッツ。
手を離し、サイドバイサイドで一定の距離をとってから助走に入る。
後ろ向き、左足に全てを乗せて滑る。視界の端に映る凛にあわせて身を沈める。左に急なカーブを描き、トウを突き刺し跳び上がる――。
だが次の瞬間、俺は氷上に倒れこんでいた。
すぐに立ち上がるが、しかしそれにどれだけ意味があるだろう。悔しさと、それより大きな焦り。
もちろん凛はジャンプを決めている。だがペアでは、二人が同時に成功しなければ技として認められない。
「次行くよ」
失敗しても演技は続く。これがスケートの残酷さだ。
次の技はスロートリプルサルコウ。練習では成功率の高い技だが……
凛の腰に両手を当てて彼女とともにターンする。そのままターンの勢いを利用して――だが、0.2秒手を離すのが遅れる。
致命的なミスだった。タイミングが狂った凛は、回転力が足らないまま宙に放り出されてしまう。
このままでは彼女が大怪我をする――最悪の結果がわずか1秒の間に頭を過ぎった。
けれど、そうはならなかった。凛はとっさに身体を開き回転を殺し、二回転で氷上に降りてきたのだ。そして両足で着氷。身体を支えきれずに手もつくが、しかしなんとか勢いを殺すことには成功した。
おそらく凛が並みの選手であったのなら、前向きに降りて全身を氷に打ちつけながらすべり、フェンスに激突していただろう。だがそうはならなかった。並大抵ではないカバー力だ。
だけど、これで俺たちがミニマムスコアを取る可能性はゼロになった。
身体の内側からは後悔が沸き起こり、会場から送られる拍手と視線がリンクの冷気で氷柱に変わって突き刺さる。
「頑張れ!」
観客からそんな言葉が跳ぶ。だが俺は思った。一体なにを頑張るのだ? どうせ頑張ったところで、もはや挽回は不可能だ。
フィギュアスケートは基本的に減点方式。挑める技の数と種類は決まっている。残った技をどれだけ完璧に決めたところで、前半のミスを取り返すことは叶わない。
今、前を見つめているのは凛だけだった。いや、心の中では絶望しているのかもしれない。これまでの十年以上の努力が実を結ぶはずの五輪、その会場に足を踏み入れることさえ出来ないことが決まったのだから。
けれど少なくとも、表面上彼女はいつもどおりだった。俺に非難のまなざしを向けるでもなく、ただ前だけを見ていた。やっぱり彼女は強い。だが、その才能を無駄にしてしまったのは俺だ。失わせてしまったものはあまりに大きい。
失意のなかで残りの要素をこなしていく。心の奥底に、彼女に怪我をさせてはいけないという使命感だけは残った。何とか危険な技であるリフトとツイストを確実にこなす。
だが、決定的に俺たちのユニゾンは乱れていた。ステップやターン一つ一つもバラバラ。最後を締めくくるのはスピン。《バックエントランス/後ろ向きで》で入るが、そのタイミングからしてずれる。最終的に俺が半周遅れてフィニッシュ。
――最悪だ。
会場からは多数の花束とそれなりに大きな拍手が送られる。リンクに投げ込まれる花束などのプレゼントは事前に買っておくもので、当日の演技内容はほとんど関係ない。あくまでそれが指し示すのは、事前の期待度だ。
一方、拍手は演技内容に対して送られる。スケートファンは基本的に優しいから、ボロボロの演技に対してもそれなりの声援と拍手を送る。逆に言えば、《それなりの拍手》は、演技がたいしたことなかったということなのだ。
さすがのコーチも険しい表情で俺たちを迎えた。別に怒っているわけではないとは思う。だが四年に一度の五輪への道が断たれたのだ。落胆も四年間で一番だろう。
キスアンドクライに入るが俺と凛に会話はなどない。笑って、泣いて――そんな意味のこめられたキスアンドクライだが、今の俺たちにとっては絞首台といったところか。
大画面に無様な演技のリプレイが映る。これを流している運営も可愛そうだ。二分半もある演技だが、どこを流していいかわからなかっただろう。リプレイに値するところなど皆無だ。
「テクニカルコンポーネンツスコア、プリーズ」
平均より早くジャッジの判定が終わる。論議すべきところなどなかったのだろう。これがミニマムスコアぎりぎり届くか届かないかくらいの演技なら、多少配慮があったりもするのだろうが、この出来では救いようがない。迷うべき場所など皆無だ。
冷酷にその点数が告げられる。ミニマムスコアを4点も下回っている。
分かってはいた。ジャンプを失敗したときからではなく、演技が始まる前から。もっといえば、凛とカップルを組んだその日から分かっていた。
俺はこういう奴なのだ。大事なところで常に失敗する練習王子。それが俺なのだ。
けれどその宣告はそれでもやはり残酷だった。俺はもともと五輪に縁がなかったから別にいい。けれど、凛はしかるべき道を歩んでいれば、まともなパートナーと組んでいれば、絶対に五輪にいけたのだ。いけただけじゃない、金メダルだって取れたはずなのに。
それなのに、こんなくだらない男のせいで、夢を不意にした。
凛の表情を盗み見る。いつもどおりの表情──つまり無表情のままだっだ。一体彼女は今胸のうちで何を感じているのだろうか? 俺に対する怒り? 俺を選んだことに対する後悔? いや、もしかしたら何を思っていないのかもしれない。ただ、結果を見つめているだけ。オリンピックに近づくどころか、遠ざかっていっているという事実を俯瞰しているだけなのかもしれない。
俺たちはいち早くキスアンドクライを退出する。すると廊下で惨めな俺たちに声をかけてくるものがいた。
「いやぁ、残念な結果だったね」雨川信だった。悪い噂の堪えないあの日本スケート連盟の強化部長。着込んだコートとマフラーが横幅を強調している。「私はもちろん連盟も君たちに期待をしていたのだが」
なんとも白々しい言葉だった。残念そうな表情を作ってはいるが、その面の下にはいやらしい笑みが透けて見える。
「神埼コーチ、今後のことで二人にちょっと確認したいことがあるので、お借りしていいいいですかな?」
「ええまぁ……」
コーチは渋い顔をしたが、けれど拒否する理由が見つからない以上そういうしかないだろう。
しかし話とは一体なんだろう。嫌味の一つでもいってやろうというだけなのだろうか。
俺たちは彼につれられて、誰もいない個室に入った。
「単刀直入に言おう。連盟が出した条件は先日伝えたとおりだ。分かっているね? 残念ながら――まことに残念ながら、君たちはそれを果たせなかったわけだ」
今大会におけるミニマムスコアの獲得。それが俺たちに課された条件だ。
「しかしだね、私は今日、君たちに可能性を感じた」
そういう力説する彼の言葉を形作っているのは悪意と嘲笑だ。今日の演技に、可能性など少しもないことは、俺たち自身が知っていることだ。
けれど、同時にその言葉が意味するものを俺はすぐ理解した。
「連盟はこの結果を受けて五輪代表選考を終了するだろう。だが、私はこの判断を全力でとめようと思う」
一体こいつの本音はどこにあるのだろう。
「何とか全日本で井上君たちと戦えるように頑張ってみよう」
もしかして、こいつは俺たちに恩を売ろうとしているのか。いや、俺にではない。凛に恩を売って、そして自分の支配下に置こう。そうしているのかもしれない。
「それでは、今日はゆっくり休みたまえ」
小太りな身体をのっさりと揺らして雨川は立ち去ろうとする。だが、途中で止まって振り返る。
「ああ、ところで君崎君。前も言ったが」
そのときの顔は、俺がこれまでの人生で見た中で一番下品でいやらしい笑顔だった。
「君は組む相手を間違えたのではないのかな?」




