2-11
楽しい出来事が待ち遠しいのは、なにも小学生だけではない。さすがに遠足前日の子供のように眠れないということはなかったが、人生初めてのデートを前にした俺は、とにかく落ち着かなかった。
妹の未央に「なに、お兄ちゃん今日デートでもあんの?」と、兄が浮き足立っている理由を看破されるほどだった。
もどかしいのは練習の時間だ。その後に楽しみなことがあるので、時が立つのが遅い。そして、それを彼女に気づかれないように注意を払い続けなくてはならなかった。
最悪なのは、凛に集中力を書いた姿を見せて、≪やる気がない≫と思われることだ。「映画なんて見てる場合じゃない、練習を続けよう」なんていわれてしまったら一大事だ。
そんなわけで一生懸命練習に励んだのだが、結局、心が平静ではないことを隠し切れていたのかは分からない。妹にさえばれていたところをみると、たぶん出来てはいなかっただろう。
さて、ようやく長い練習時間が終わる。ここで俺たちは一度別れた。凛が俺に用事があるからと一時間半後に現地集合しようと提案したのだ。
俺は一度家に帰り、シャワーを浴びて夕飯を食べ、ほとんど選択肢が無い中から最善の私服を選んで、待ち合わせの場所に向かった。
一時間半暇をつぶせといわれても、楽しいことを前にはなもする気になれず、結局かなり早い時間に家を出てしまう。
そして案の定三十分前に待ち合わせ場所に着く。結局手持ち無沙汰になり、近くの店をあちこち回って時間をつぶすことになってしまった。これならリンクで筋トレでもして時間を有効に使うべきだったと後悔するが、いまさら言っても仕方が無い。
そして待ち合わせ場所に戻る。だが、時間になっても凛は現れなかった。
「用が長引いているかな」
それからさらに二十分ほど待ったころ、凛が小走りで現れた。その姿を見て、遅刻のことなど頭から吹っ跳んでしまう。
「なに? じろじろ見て」
「あ、いや、ジャージ姿以外見たこと無かったから」
彼女はバラエティなどには出ないので、テレビに映るときの格好は当然、日本代表のジャージか衣装に限られる。
相方になってからも、練習の行き帰りもジャージ姿なので、私服を拝む機会などほとんど無かった。
そこにこの私服だ。シンプルな白いワンピース。それに麦わら帽子。それこそ海辺の別荘にでも出かけていきそうな、そんなさわやかな格好。本当にシンプルな服だが、むしろ飾り気が無いところがまた彼女らしい。
「そう。じゃぁ早く行こう」
そういって凛は先に歩き出した。あわてて俺もついていく。
しかし、こうしてみると、すごいことだ。なにせ彼女は国民的ヒロインなのだそしてその国民的ヒロインは、これまたすごく可愛くて。そんな彼女と肩を並べて歩いている。下衆な考えだが、男にとってこれ以上優越感に満たされるシチュエーションは無い。
だがそれと同時に沸き起こるのは、劣等感だ。世界一の美少女の隣に、自分みたいな何のとりえも無い男が並んでいることに対する申し訳なさ。
俺の中で二つの感情が渦巻き、絡み合っていた。
……いや。俺はジーパンの上から自分の足をつねった。痛みで雑念を振り払って、今を楽しもうと決意した。
足早に映画館に入りチケットを買う。麦わら帽子が功を奏して、誰にも凛の正体がばれることは無かった。時間ぎりぎりだったので、入場後すぐにライトが落とされ、俺はようやくほっとすることができた。こうなればもう面倒なことにはならない。遠慮なく楽しむことが出来る。
物語は、語り手の男が、スペインで出会った一人の男、ドン=ホセについて語りだすところから始まる。
生真面目な兵士ドン=ホセは、ある日女工を殺した女の護送任務につく。その女、カルメンに出会った彼は、誘惑されて彼女を逃がしてしまう。
軍を捨て、カルメンとともに山賊になり密輸に手を染めていくドン=ホセだったが、やがてカルメンの心が彼から離れていく。
自由を求めるカルメン。彼女を手放したくないドン=ホセは、結局彼女を刺し殺してしまう。
劇伴はビゼーのオペラ版のものがメインとして使われている。ストーリーもメリエの原作ではなくオペラ版に近く、派手で明るい印象を受ける。
さて、映画そのものは、デートに誘う口実程度にしか思っていなかったが、さすが話題作だけあってなかなかの出来だった。
俳優の演技がなかなか良くて、自分たちでやるときの参考になるかも知れない。
「結構よかったね」
「うん」
俺たちは寄り道することも無く帰路に着いた。普通なら映画の感想なんかで盛り上がるはずなのだが、いつもどおり俺たちの間にはほとんど会話が無い。
普段は練習中しか会わないからあまり気になっていなかったが、いざこうやって歩いたりすると、会話が無いことがかなり気まずく思えてくる。
近代的で明るい都会から十分も歩けば閑静な住宅街に変わる。
暗い遊歩道を無言で歩いて、しばらくしたころ。凛が突然立ち止まった。俺もそれにつられて立ち止まる。そして振り返る。
「ねぇ、私のこと好き?」
あまりに突然の発言に俺は凍りついた。俺が唖然として返事を出来ないでいると、彼女はそこに追撃を加えた。
「あなたが私を好きじゃないなら、私が好きになる」
彼女は、そのしなやかな指先を伸ばし、俺の頬を撫でながら艶やかにそういった。そこにいるのは、いつもの無表情な彼女ではなかった。
突然の告白に俺はあせり、憧れの女の子を前にして、返事はひとつできなかった。数秒してようやく言葉をひねり出す。
「その、僕も凛のことが……」
俺は下を向きながらそういった。そして、彼女が再び口を開く――
「違うでしょ、ドン=ホセはそんな返事しない」
「……へ?」
一拍、遅ればせながら、俺はそれを理解した。
彼女の頭の中には今、恋は野の鳥が流れているのだ。考えてみればすぐ分かることではないか。それがたった今見たばかりの映画のセリフだということに気がつかないなんて、どうかしてる。つまり、彼女は今見たばかりの映画を参考に、演技の練習をしたのだ。
「あ、えっと」
俺は冷静を装って、返事を返そうとした。
「その、ごめん……」
何とか言葉をひねり出したものの、その後なんていいっていいのかわからず黙り込んでしまう。だんだん顔が赤くなっていくのを感じる。このままだと悟られる、静まれ、そう念じても体は熱くなっていく一方だ。
「そう」
凛はいつもどおりの無表情に戻って、再び歩きだした。俺もそれについていく。沈黙が痛い。たぶん、彼女は僕が咄嗟に反応できなかっただけだと思っているとは思うけれど、それでも百分の一秒でも、凛に告白されるなんて勘違いした自分が恥ずかしかった。結局その後一言の話すことなく、家の近くまで来る。
「明日」
凛は振り返ってこういった。
「明日、カルメンの練習しよう」
相変わらず無表情だったけど、でもどうやら映画に誘ったのは正解だったみたいだ。




