2-09
翌朝、俺は期待と不安とが入り混じった状態でリンクへ向かった。
昨日プレゼントを渡したことで、凛との距離が縮まったりするんじゃないか、なんて期待していたのだ。
だが結論から言うと、彼女の態度は何も変わっていなかった。いつもどおり会話は挨拶とスケートの話題だけだし、滑っているとき意外は目もあわせない。
キモがられたらどうしようという不安も消えたのは幸いだが、正直拍子抜けだった。いつものように練習が始まって、いつものように終わった。
俺は結構落胆しながら、更衣室に戻った。俺は水を思いっきり飲んでから、椅子に座り込む。彼女が纏っている鎧は予想以上に重いみたいだ……いや、もしかしたら、それは俺に対してだけなのか。もしかしたら別の人には、例えば好きな人に対してとかは――
そんな無意味で根暗な妄想が頭を駆け巡った時、なにやら更衣室の外から声が聞こえてきた。俺は自然とそれに耳を傾ける。
「今日は君に大事な話がある」
この声には聞き覚えがある。日本スケート連盟の強化部長、雨川信だ。
俺は頭の中でその姿を想像した。歳は四十代半ばだろうか。禿げ上がった頭に、細い目、中年太りが目立つ腹回り。なんとなく全体的に悪人面に見えるのは、彼にまつわる噂のせいだろうか。彼はあまり評判の良い人間ではない。実は裏で経費を水増ししているとか、強化選手を選ぶ権利を盾に女子選手にセクハラをしているとか、そんな悪い噂は絶えない。
まぁ、どこまで本当のことか、俺にはわかりかねるが……。
「なんでしょうか」
この声は、凛じゃないか。いったい凛に何の用事だろう……。盗み聞きは良い趣味ではないとわかってはいたが、それを止めるという選択肢を俺は選ばなかった。
「実はカナダで、最近一組ペアが解散した。理由は女子選手が学業専念のために引退するからだ」
即座に、俺が聞いてはいけない事柄だと気がついた。
「年は二十二で、ペア暦は五年だ。今からなら、五輪にだっていけるかもしれないぞ」
噂では聞いていた。協会側は、凛が俺と組むことに反対なのだと。テレビや新聞はともかく、ファンの正直で率直な感想が書き込まれるネットではかなり大声で言われていることだ。もちろん知っている。だが、改めてその現実を突きつけられると気が滅入った。
「彼とペアをやるというのは私が決めたことです。誰がなんと言おうと変える気はありません」
凛はそう断言した。
「それに、私は彼とじゃないと五輪にいけないと思っています」
「はは、本気で言ってるのか? まさか王寺とのカップルで井上組に勝てると?」
奴の言葉を聞いて、こみ上げてきた。怒りなのか恥ずかしさなのか、どちらともいえるあの感じ。
「井上姉弟組は、既に五輪のミニマムスコアも獲得してるし、国際大会での実績もある。ソチでは8位入賞も十分に狙えるだろう」
井上夢&井上優。現在日本所属唯一のカップル。個々の選手としての才能はたいしたこと無い選手だ。実際二人とも、シングル時代の実績なら、凛はおろか俺にすら及ばなかいはずだ。
しかしペアにおいては、いまや頂点を狙える将来有望な人材だ。その強さは、ユニゾンにある。誰よりも強い絆で結ばれた姉弟。プライベートでの仲のよさも業界では有名だ。
とにかく相性が良い。ペア技の実力は世界レベル。特にリフトは世界トップクラスといえる。難易度の高いグループ4や5のリフトを、高いレベルでこなす。
「一方君たちは結成一年目。それも二人ともペア未経験」
確かに、同じフィギュアスケートと言っても、シングルとペアでは要求されるものがかなり違う。
通常スケーターはシングル選手としてキャリアをスタートする。そしてそれぞれの適正でアイスダンスやペアに転向する。
そしてペアの男性選手が一人前になるのに、通常三年はかかるといわれている。
シングル選手よりも上半身のパワーが求められる。もちろんバランス感も重要だし、スピンやスパイラルで女性と同じように姿勢をとるために柔軟性も必要だ。それらのものを、たったの一年で身に着けなければならない。
もちろんそれだけでは勝てない。試合で使うショートとフリー、二つのプログラムの完成度を高めなきゃいけないのは言うまでもないが、それ以上に俺にとって大事なことがある――言うまでも無くメンタル面の強化だ。《練習王子》のままでは例えどんなにすばらしいプログラムを持っていようと勝てない。
とにかく、問題は山済みだ。
「君たちに勝てるわけないだろ。今ならまだ間に合う。五輪に行きたいだろう?」
心底馬鹿にしたような態度で雨川は言った。俺は心の底では怒りを感じていながら、しかし一方でそれを事実だと認めていた。
「話はそれだけですか?」
だが凛はあくまで気高く彼にそう言った。
「なんなんだその態度は……」
憤慨する雨川に対して凛は無言を貫いた。
「それでは今日の本題を伝える。五輪代表選考に関してだ」
五輪の代表選考方法は、毎年少しずつ変わっていく。基本的に、全日本の結果が重視されるのは変わりないのだが……
「まず前提条件として、今年中ミニマムスコアを取得すること」
フィギュアスケートは各演技が《技術点》と《演技構成点》という二つの観点から採点され、その合計点数で順位が決まる。
技術点というのは、行ったエレメンツの自体の点数を合わせたものだ。つまり、難しい技をすれば高い得点が得られる。当然技に失敗すれば、点数は下がる。
一方、演技構成点では、振り付けや表現力、演技の密度などが評価される。技術点ではエレメンツそのものが評価されるのに対して、演技構成点ではエレメンツ以外のもの、言い換えれば演技そのものが評価されるという面がある(つまり、どれだけすごい技を持っていようとも、振り付けやスケーティングがひどければ、演技構成点で高い点数を得ることは出来ない)。
そして、技術点で一定の点数を取った実績がなければ、世界選手権やオリンピックに出場することが出来ない。その点数がミニマムスコアだ。
ソチ五輪に出場するために必要なスコアは、ショートの技術点で24、フリーで40点以上だ。
「今年中にミニマムスコアを取れない場合は、全日本選手権を待たずして、井上姉弟組の五輪内定が決定することになる」
俺はそれを聞いて絶句した。ミニマムスコアを全日本までにとるのは、至難の業だ。
俺たちが出場できるISU公認大会はそれほど多くない。
九月にあるネーベルホルン杯。十月にあるフィンランディア杯。このうちネーベルホルンは間違いなく調整が間に合わない。よって出場可能なのは、十月のフィンランディア大会のみ。つまり俺たちは、一発勝負でミニマムスコアを獲得しなければならない。
「分かりました」
それがどれだけ厳しいことか。下手したら、オリンピックに挑戦するどころか、全日本にさえ出来なくなるかもしれない。もちろん、よしんばミニマムスコアを取ったとしても、その後には井上姉弟を倒さなくてはいけない。オリンピックまでの道のりはあまりに険しい。
「それでは失礼します」
足音で凛が遠ざかっていくのがわかった。
俺は少しだけ緊張が解けるのを感じた。だが相変わらず身体にはその残滓がまとわりついている。
それから十分以上かけて、俺は心の中を整理した。
……なんてことない。俺と彼女とが不釣合いだってことは、最初から分かっていたことじゃないか。だから頑張るしかないんだ。彼女の迷惑にだけはならないように。




