2-05
練習初日。時刻は朝の七時。リンクが開館する時間だ。
君崎凛は、大荷物を引きずってリンクにやってきた。どうやら、本当にホテル生活を始めるらしい。
とりあえず荷物はロッカーにおき、氷上で神埼コーチが表れるのを待つ。その間、会話は皆無だった。
おはよう。交わしたのはそれだけ。会話ですらない。テレビなどのメディアで語られるイメージ通り、かなり寡黙なようだ。
まぁ、ある程度は覚悟してたけど。
「それじゃぁ始めようか」
リンクに現れたのは、俺のコーチ、そして今日から俺のコーチとなる、神崎義男コーチだった。
年は三十代後半だが、数多くの一流選手を育て上げている名コーチである。風貌は和製ジェントルマンといったところか。女子選手のあいだで密かに人気だったりする。
現役時代は、ペアでオリンピックにも出場している。そのときの順位は十五位。これは日本人カップルとしては歴代最高位である。
「よろしくお願いします」
初対面の凛はリンクに着くと丁寧にお辞儀をした。かなり態度がきつい凛だが、決して傲慢なわけではない。
俺も、一応区切りなのできっちりと挨拶することにした。
「これから、またよろしくお願いします」
「うん、よろしく──さて、じゃぁ時間もそんなにないし、練習始めようか」
同じフィギュアスケートといっても、ペアとシングルとでは、求められるものまったくが違う。
確かに共通する技も多い。たとえばジャンプやスピン、ステップ・スパイラルなんかは、基本的にはシングルと同じだ。
しかし一方でシングルにはない技がそれ以上にたくさんある。リフト、ツイスト、ペアスピン、デススパイラルそしてスロージャンプ。
これらの技の中で、特にリフトやスロージャンプはペアを象徴する技だろう。基本的に危険度が高く、ダイナミックでアクロバティック。
だが、それらはペアのほんの一面にすぎない。シングルとの最大の違い。それは、すべての技を《パートナーと同調して》行わなければならないことだ。パートナーと息が合っていなければ、どんなにすごい技を行っても無意味だし、そもそもペア技にいたっては行うことさえできない。
息が合っていることを《ユニゾン》というが、ペア競技においてはこのユニゾンがなによりも大事になる。そこがペアの難しいところだ。
シングルにおいては《世界一》の凛だが、ペアに転向しても即一流、というわけにはもちろんいかない。大事なのは俺と彼女がどれだけ同調できるかだが……。
「まずは手を繋いで滑るところから始めよう」
ペアでは男女が手を繋いで滑るシーンが多い。もちろん、抱き合うのも日常茶飯事だし、キスの真似だってする。もちろん。そういうことをやる覚悟はしていた。
だが……。俺は身体から嫌な汗が出てくるのを感じた。こういうとき、男がリードしなければいけないのは十分わかっている。だが、身体が動かない。
「ほら、ぐずぐずしない」
コーチが二人をせかす。俺は覚悟も決まらぬまま、コーチに言われるままに、凛に手を差し出した。ちょっとの間をおいて、彼女の手が差し出される。次の瞬間、自分の手から女の子のやわらかさがダイレクトに伝わってきた。美人ですらっとしたイメージに強い彼女だが、その手は細いながらにやっぱり丸みを帯びていて、明らかに女の子のものだった。
「最初は滑るだけだ。スネークとスリーターンあたりから始めてみるか」
そんな簡単な練習? そんなふうに思えたのは本当に最初のうちだけだった。実際、本当にただ滑るだけなら、あまり難しくはない。だけど、シングルみたいにスピードを出すのは不可能だった。ただ右に左にと蛇のように滑るだけの、小学生にだってできるスネークでさえもどこかぎこちない。ましてターンでもしようものなら、
「イタッ」
二人の足が絡み合って転倒してしまう。かれこれ一時間。転倒すること数十回。
スケートの練習なのだから、転倒は日常茶飯事だ。特に難しいジャンプや、複雑なステップの練習をするなら、それは当然のこと。スケーターは、初めてスケート靴を履く初心者よりも、転び慣れているといっても過言ではない。練習でいっぱい転んで、本番で転ばないようにする。
しかし、今俺たちは何ら難しい技には挑んでいない。この一時間、何をしていたかというと、ただ滑るだけ<・・・・・・>。俺たちは初めてスケートをする初心者のように、簡単なステップやターン一つでこけてしまう。
「よし、午前の練習はこれで終わりにしようか」
神崎コーチはそう提案した。まだ学校が始まるまで三十分はある。だから本当はもうちょっと練習できるのだが、無駄な動きの連続で疲れきっている俺たちは、素直にそれに従うことにした。
「ま、絶望することはないぞ。最初はそんなもんさ。ちょっとずつちょっとずつ、二人の滑りをひとつにしていくんだ」
まったくかみ合わない二人のスケート。息が合わないから、簡単ターンやステップでもこけてしまう。
「……お疲れさま」
凛は相変わらず無表情のまま、一言だけ言って、リンクを後にした。その背中を俺は黙って見つめる。
ただ単に不慣れというのもある。だがそれ以上に、スケートを邪魔しているものがある。
「なぁ俺、おまえ女の子とつきあったことないだろ」
神崎コーチの一言が、俺の胸にぐさっと突き刺さった。
ようは、照れなのだ。恥ずかしいのだ。女の子と手を繋ぐのが。腰に手を回して滑るのが。
別にスケートに命を捧げてきたから、といういいわけをする気はない。
「ま、安心しろって。男慣れしてないのは、あっちも同じだろうから」
コーチはそういっているが、俺にはそうは思えなかった。何せ、あの容姿。男慣れしてない、そんなことありえるだろうか。それは、アイドルが彼氏なんてできたことありません、ってファンに向かって言っているのを信じるくらい、馬鹿げてるように思えた。
わかっている。俳優にならなきゃいけない。こんなことで照れてる場合じゃない。こんなんじゃロミオとジュリエットもドンキホーテもできない。男女の愛を描くなんて夢のまた夢だ。ペアの難しさ……それ以前の問題だ。




