最後の魔女 前編
断固拒否の女騎士と魔女の話。あちらのメインキャラクターはほとんど出てきません。
世界観は一緒ですが、こちらを先に書いていた為、文章が若干かっちりめ。
立派な漆黒の馬上で、その騎士は碧い眼を細めた。
辺りの景色は赤い夕焼けに包まれ始めていたが、一番近い民家までは黒馬を懸命に走らせたとしても到着は深夜になるだろう。
愛馬を酷使するつもりはない。
騎士は、ゆっくりとした動作で馬を降りた。野営に調度良い、柔らかな草地が鬱蒼とした茂みに囲まれている。水が流れる音が僅かに聞こえるので近くに水場があるのだろう。
愛馬を休ませるにも調度良い。季節は幸い春の終わり、日が落ちても凍えるような事もないだろう。
「疲れただろう。今日はゆっくり休めそうだね」
愛馬は鼻を鳴らして返事をすると騎士の腕に鼻先を擦り付けた。
「魔女、ですか」
「そうだ。本物の、な」
騎士は瞬きを繰り返した。
鷹揚に頷いた男はこの国の大臣ジーニアである。六十を越えるジーニアは標準より小柄で枯木のようにか細い男だが纏う空気は威圧的で、誰もが一歩引いて傅いてしまうだけの威厳のある男だ。
「その魔女はマドイリとの国境付近に暮らしているらしい。敵の手に渡れば脅威となるだろう。貴公には、魔女を手なずけ、陛下に仕えるよう説得して欲しい」
「お言葉ですがジーニア殿。陛下を護る立場である私が出向く程の事とは思えません」
「貴公はかの魔女を軽視しておるのだ。本物の魔女は伝説と同じように自然を操り、その力は使い方によって千人の騎士にも匹敵する。それこそ、マドイリの火器など玩具同然だ。呪いを生業とする魔女とは全く異なるのだ」
そうは言われても、と騎士は眉を寄せた。ジーニアの言う事は信憑性もない。これが大臣の言葉でなければ、馬鹿なと一笑していたところだ。
近衛騎士団長である騎士にとって立場は大臣は従わねばならない相手だが、国王を護るという任を置いてまでその命に従う義理はない。
最も重要すべきは国王の御身である。
「これは陛下の命だ」
その言葉に騎士は小さく嘆息した。
「分かりました」
「これは重要な任務だ。同じ女ならば少しは話しもしやすかろう」
「なるほど」
それで自分が、と騎士は再び嘆息した。
「身支度が調い次第、直ぐにでも出発してくれ。国境で戦が始まってからでは遅いのだ」
近衛騎士団長リリィーラ・ドナウは、その長身を折ってジーニアに礼をすると静かに退室した。
賢王と名高いシュートラス・ドート・クルックスが治めるダラッカ国は年間を通して穏やかな気候である。中央に豊かな大地を持ち、南を穏やかなルカダ洋に囲まれているため、農作物にも海の幸にも恵まれた豊かな国だ。人口の多い中央には下水道も整備されている。
国境は攻略するには困難な、険しい山脈に囲まれているために他国との大きな争いも無く穏やかな歴史を刻んできた。
山脈の向こうには軍事国家と言って差し支えないマドイリ国があるが、流石の軍事国家も山脈を越えてまで攻めては来ない。極めて友好的に接してきた両国だが、マドリイ国が不穏な動きを始めたのは三年前である。
軍事より国交に力を入れていたマドリイ国王が病に倒れ血気盛んな王子が冠を被った途端、隣国のハーマーイルに攻め込んだ。
突然の事にハーマーイルは国土の半分を失い、花のように美しいと評判の姫を一人差し出す事で一年前に終戦を迎えた。
次は、とこちらを狙っているのが目に見える。
ダラッカもせっせと国境警備を固めてはいるが、不穏な気配は高まるばかりで何の牽制にもなっていない。
だからと言って魔女とは。
近衛騎士団長であるリリィーラが身を置く王都ダラッカから国境までは、徒歩か馬車での旅となる。馬車での旅費など一般市民には出せぬ金額だが、ダラッカ有数の貴族であるドナウ家であれば問題はない。自家用の馬車など、数台所有している程である。だが、リリィーラは馬車に揺られるよりも馬上を愛する人だ。今回も勿論愛馬と共に国境に向かうための準備を進めていた。
国境までは馬で飛ばしても四日は掛かる。日が登ると同時に呼び出され、大臣に命を渡されてから直ぐに身支度を整えたものだから朝食を食いっぱぐれてしまった。
リリィーラは用意させた保存食をかじりながら地図を頭に叩き込んだ。
部下のエラージは見かねて早めの昼食を手に現れた。暫く王都を離れる旨と任務内容を話すと、エラージは目を見開いて大袈裟に驚いて見せる。
「団長は魔女をご存知なかったんですか」
「そんなに有名なのか」
「一般的には知られてませんが、城勤めの人間には周知の事実ですよ。以前は離宮に住んでいたらしいのですが、二十年程前に国境付近の小さな村に移り住んだとか」
「待て。その魔女は一体いくつだ」
「さあ…魔女ですからねぇ」
エラージは年下の上司の疑問に小さく笑いを漏らした。
リリィーラは今年で二十二になる。代々近衛騎士団を率いてきたドナウ家の当主であるリリィーラは女の身でありながらも、誰もが認める完璧な団長だ。
幼い頃から女としてではなく当主として育てられた彼女の剣の腕前はダラッカ一と歌われている。女性にしてはかなりの長身で鍛えられた身体だが、やはり騎士としては細身である。だが、その手にするのは他の騎士と同じ長剣だ。その長剣から繰り出されるのは流れるような剣捌きであり、剣には早さだけでなく人を斬り倒すだけの力もある。
女が団長なんてと口にした者はその剣に完膚なきまでに打ちのめされ、その身をもってリリィーラを団長として真に認める羽目になった。
剣の事になると人が変わる団長だが普段は穏やかで人の良い上司である。
俗世から離れた世界で当主としての教育だけを受けてきたリリィーラは、世間話は耳にしても噂話や醜聞に疎く、妙に世間知らずでどこか頼りない。城内では周知の事実も、彼女にとっては初耳だ、で終わる事も少なくないのだ。
それを補うのが右腕である副長エラージの役目。
「行って誰だか分からない、ではどうしようもないな」
「離宮に住んでいた魔女はたいへん美しかったそうですよ」
「へぇ。それは楽しみだ」
昼食を掻き込みながら笑った団長にエラージは苦笑した。
「それにしても、本物の魔女とはどんなものだろうな」
「彼女は火を、水を、自然を操り、空を飛んだとか。たいへんな知識と見聞の持ち主で、彼女が知らぬ事は無いとも言われたそうですよ」
「人を連れて飛べるのなら素晴らしいな!」
どうも自分を連れて飛んで欲しいらしい。
きらきらと子供のように瞳を輝かせる団長に、部下はとうとう声を上げて笑った。
魔女が住むという国境の小さな村に到着したのは王都を出発して四日目の昼過ぎである。天候も崩れることなく順調に進んだため、思いの外早い到着だった。
山脈の麓に位置するその村の気温は中央より随分と低い。エラージが用意してくれた外套を羽織ったリリィーラはその襟をきゅうと寄せた。
愛馬の手綱を引きながら辺りを見回す。民家が二十件程立ち並ぶ合間に食堂と思わしき建物、教会がその奥に存在感を放っていた。
簡素ではあるが生地も作りも見るからに高価な外套に身を包み、立派な黒馬を引いて歩くリリィーラは、腰に下げた剣からも一目で身分の高い騎士と見て取れる。こんな田舎では完全に浮いてしまっていたが本人は全く気にしていない。
昼食の片付けを終えて家畜の世話をするために外に出た中年女性は、異質とも言える騎士の姿を認めて何事かと寄って来た。その女性ににっこりと微笑み掛けてからリリィーラは丁寧に口を開いた。
「こんにちは。良いお天気ですね」
「まあまあ。こんな所に立派な騎士様が何の用だい。国境警備ならもっと東に行った所だよ」
国境付近とは言え、この村の背後に聳える山は特に険しい。慣れた人間の足を持っても山越えには相当な体力を使う。
そこを押してまで山を越えては来ないと分かっているからか、ピリピリとした国境警備とは違いこの村の人間はのんびりとしたものだ。
「私は魔女を探しに来たのですが、彼女をご存じですか」
「ああ。ディラのとこに来たのかい。あの子の家なら教会の裏だよ」
「ありがとうございます」
もう一度にっこりと笑いかけた。
貴女の笑顔は女性にも男性にも魅力的ですから積極的に使いなさいと言ったのは副団長のエラージだ。外見からは想像出来ない物腰柔らかそうなあの男は、実は黒さを秘めた切れ者である。
ゆっくりと手綱を引いて歩きだした騎士を見送って女性は感嘆の息を吐いた。
教会脇の木に手綱を結ぶと黒馬は鼻を鳴らしてから草を食んだ。
「用事が済んだら水と乾草を分けて貰おうな」
黒馬はリリィーラの言葉を理解したように嘶いた。
教えてもらった通り、協会の裏手にはこじんまりとした簡素な家が一軒あった。人口も少ない村にも水道だけは整備されているはずなのだが、庭に井戸があり薬草と思しき緑が広がっているというどこか懐かしい光景。
魔女が住むというからにもっと薄気味悪い家を想像していたリリィーラは、拍子抜けだと言わんばかりに肩を竦めた。
扉を二度叩いて反応を待つ。声を掛けようかと思ったが、名も知らない相手に何と声を掛ければ良いか分からず口を噤んだ。
ギッと軋んだ音を立てて扉が開いたので、リリィーラは一歩身を引いた。
視界に飛び込んだ眩い金にリリィーラはぱちくりと目を見開いてから瞬きを繰り返す。
「誰?」
つんとそっけない声の主はリリィーラの姿を怪訝そうに見て眉を寄せた。
腰に届く程のけぶるような見事な金髪は緩やかに波打っており、それだけでも目を引くというのに声の主はたいへんな美少女であった。
背はリリィーラより僅かに低い。甘く愛らしい顔だというのに、少女としては大柄だ。か細い身体に小作りな顔は庇護欲をそそられる。ぱっちりとした大きな双眸は意志の強そうな光を湛えており、宝石のようで目を奪われた。それを縁取る睫毛は薄い金で、恐ろしく厚く長い。瞬けばばさりばさりと音がしそうだ。
呆然と自分を見詰めるだけで返答のない騎士に業を煮やした少女はきつく睨み据えて声を荒げる。
「だ・れ!」
「あ、失礼。私は近衛騎士団長リリィーラ・ドナウ。貴女が魔女か?」
「…そうだけど。近衛騎士団長様が何の用」
可愛らしい顔を不機嫌に歪ませてぎろりとリリィーラを睨みつける。その表情すら愛らしくて騎士団長はわきわきと指を動かした。
こう見えてリリィーラは小さく可愛らしいものに目がない。小動物は勿論だが小さな女子供にも弱いのだ。
少女らしい外見にしては背が高いこの魔女だが、それを差し引いてもやはり可愛らしい。
「私は国王陛下の命により、貴女をお迎えに上がりました。陛下は貴女を城に迎えたいと仰っています」
魔女は長々と息を吐き出してから部屋の中を指さした。
「入って」
頷いて中に入ると薬の臭いが鼻をついた。
昔は箒で空を飛んだり人を呪い殺したりとしたらしいのだが、現在でダラッカ国の魔女と言えば気休めのような呪いや薬草の調合を生業としている。この魔女も例に漏れず薬草の調合を仕事にしているらしい。
「で。どういう意味で迎えに来たわけ」
「どういう意味、というと?」
きょとんと聞き返した騎士に魔女はカーテンを開けながら言葉を続けた。
「あんた、世間知らずだろ」
「な、何を根拠に」
初対面の少女ずばりと言い当てられてリリィーラは思わずたじろいだ。
その様子を鼻で笑った魔女はそれが答えだと言わんばかりににやりと笑う。それにむっとしながらも咳払い一つ落として騎士は気を取り直した。
「貴女は二十年前に離宮に住んでいた本物の魔女なのか?」
「あのね。おれは確かに本物の魔法が使える魔女だけど不老不死ではないの。城に住んでたのは母」
「では、そのお母上はどちらに」
「母は二年前に死んだ」
「そ、それはお気の毒に……」
申し訳なそうに肩を竦めた騎士に、不機嫌なままの魔女は更に不機嫌に眉を寄せた。
「魔女殿のお名前を伺っても良いかな」
「…ディラ。ディラ・ファウル」
子供に対するようなリリィーラの態度にむっつりと答えたディラは、長々と嘆息するとどっかりと椅子に腰を下ろした。少女にしては随分と粗暴な動き。何と勿体ない!リリィーラは心中で悲鳴を上げた。
着ているものは少女というよりは少年のようなゆったりとした甲藤義物で、彼女が愛らしく着飾れば、中央の貴婦人たちと比べても見劣りなどしない。せめて、村娘たちが着るようなものを身に着けるべきだ、とリリィーラは一人頷いた。
「いくら詰まれても、どっちにも付くつもりないから。王様にはそう言ってくれ」
うんざりとした表情だけでも十分に邪険な扱いだというのに、動物を追い払うように手を振って見せるディラに、穏和で有名なリリィーラも遂に表情を歪めた。
「嫁入り前の女の子がそんな言葉遣いをするもんじゃない」
「そりゃあんただろ。ドナウと言えば中央有数の貴族様だ。しかもあんた一人娘のお嬢さんだろ?大人しく着飾って婿でも貰ってなよ」
温和で知られる現ドナウ家当主、近衛騎士団長の堪忍袋の緒はぶっつりと音を立てて切れた。
ディラはリリィーラの逆鱗に触れたのだ。
リリィーラは女性扱いされるのが嫌いな訳ではない。女として産まれた事を恨んだ事が無いといえば嘘になるが、男だったらと嘆くよりドナウの名に恥じぬよう、そこらの騎士より苛酷な鍛練を行った。性別など問題ではないのだ。
だというのに血気盛んな騎士達はリリィーラを『女のくせに』と馬鹿にした。
近衛騎士団の一員となるまでこんな屈辱は受けた事がなかった彼女は、馬鹿にしたものは全て叩き伏せた。
ディラに剣を向けなかったのは、偏に彼女が少女だからである。これが立派な成人男性ならばリリィーラは遠慮なく剣を抜くか、鍛えた拳で地に叩き伏せていたであろう。
「この村の宿は何処かな」
不機嫌に眉を寄せていたリリィーラが突然、こんな事を言うものだからディラは小首を傾げた。
「観光地でもないこんな田舎に宿なんかないよ」
リリィーラはそうか、と言ってからにっこりと笑った。その笑顔が底冷えするようにどこか薄ら寒く、ディラはびくりと肩を震わせる。
怖い。何が、と言えないが、どうしようもなく怖い。
怒りに引き攣る頬を笑顔でひた隠し、騎士は凍り付いた笑顔のままに、双眸をぎろりと光らせた。
「暫く厄介になるとしよう。目上の人間に対する言葉遣いから教えてやるから覚悟しろ」
私の扱きは厳しいぞと笑ったその顔は一見朗らかなようであり、その実、有無を言わせない性質の悪過ぎる悪魔のそれであった。