架空都市の片隅、地下のバー『モルグ(Morgue)』
地下へと降りる階段の踊り場、錆びた小さな真鍮のプレートに控えめに刻まれた『Morgue』の文字。
表の人間にとっては「少し気取った名前の静かなバー」に過ぎないが、マキにとっては「死んだはずの己の過去と、かつての仲間たちを密かに弔い続けるための場所」。
第1話 雨のモルグ
完璧な丸氷を作るには、手首の力を抜いて、アイスピックの刃先で氷の重心を少しずつ撫でるように削らなければならない。急いではいけない。角を急激に落とそうとすれば、氷は内側から微細なひび割れを起こし、グラスの中で酒を余計に薄めてしまうことになる。
何事も同じだ。物事の輪郭を削り落とすとき、もっとも警戒すべきは焦りだ。
午前一時を回っていた。
十月の冷たい秋雨が、通りのアスファルトを黒く濡らしているはずだった。もっとも、この雑居ビルの地下まで降りてくると、外の天気を正確に知る手立てはない。階段の踊り場から微かに流れ込んでくる湿った冷気と、古い換気扇が吸い出す空気の重さで、雨脚の強さを測るくらいだ。
階段の入り口、壁に打ち付けられた真鍮の小さなプレートには、ただ一言だけ刻まれている。
『Morgue』
遺体安置所。
十年前にこの店を居抜きで買い取ったとき、看板を変える気にはなれなかった。皮肉の効いた名前だと思ったし、何より、過去のすべてを埋葬して世捨て人として生きるには、これ以上に相応しい隠れ家もなかったからだ。
客はとうに途絶えていた。
カウンターは拭き清められ、磨き上げられたタンブラーがバックバーの淡いダウンライトを受けて規則正しく並んでいる。ターンテーブルの上では、チェット・ベイカーの古いレコードが、針の小さなノイズを伴いながら静かに回転していた。
あと一杯だけソーダ水を飲んだら、表の錠を下ろして寝室へ引き上げよう。そう思って、削り終えた球体の氷をリネンで包んだときだった。
真鍮のドアノブが、乱暴に回された。
外の階段を駆け下りてくる靴音には、一切の躊躇がなかった。重心が乱れ、一段か二段を踏み外しかけた不規則なリズム。
ドアが押し開けられ、雨の匂いと冷たい飛沫が店内に吹き込んできた。
「……閉め忘れましたかね」
私は氷を置かないまま、静かに呟いて視線を上げた。
そこに立っていたのは、若い女だった。
年齢は二十歳そこそこに見えた。サイズ違いの大きなステンカラーのコートを羽織り、裾からは泥混じりの雨水が容赦なく床に滴り落ちている。肩で荒く息を継ぎ、濡れて顔に張り付いた黒髪の下で、青ざめた唇をぎゅっと噛み締めていた。
そして、その瞳。
私の指先が、リネンの上でピタリと止まった。
記憶の底に沈めていた水路の蓋が、軋んだ音を立てて跳ね上がったような感覚だった。
瞳の奥にある、頑固なまでの光彩。決して他人に弱みを見せまいとする、強張った顎の線。
かつて、私の隣で煙草の煙を吐き出しながら、「世界なんてものは、最初から都合よく壊れてるのさ」と自嘲気味に笑っていた男の顔が、二十年の歳月を飛び越えて目の前の輪郭に重なった。
「……あいつの、娘か」
声には出さなかった。だが、私の視線の微かな揺らぎを、女は別の意味に捉えたらしい。
彼女は震える指先で、コートの右ポケットをまさぐった。取り出されたのは、掌に収まるほどの小さな、プラスチックの薄いケースだった。
「ここ……ですよね」
彼女の声は、寒さと恐怖でかすれていた。だが、その足取りはふらつきながらもカウンターに向かってまっすぐ進んできた。
「父が、言っていました。どうしても逃げ場がなくなったら、路地裏の『モルグ』という店を探せって。そこにいる男だけは、絶対に信じていいって……!」
カウンターのチーク材の上に、コトンと乾いた音が置かれた。
傷だらけのケースに入っていたのは、型落ちの分厚いコンパクトフラッシュだった。今どきのカメラや端末では使い道のない、旧規格のストレージだ。
その表面に貼られた色褪せた白いマスキングテープには、見覚えがありすぎる文字が走っていた。
『404_NOT_FOUND』
独特の右上がりの癖字。油性ペンの掠れ具合。
かつて、私たちが組織の後始末を引き受ける際、作戦の終了と痕跡の完全消滅を知らせるためだけに使っていた、あの男のサインだった。
「……あいつは」
私は氷をリネンごとボウルに戻し、静かに両手をカウンターについた。
「あいつは、どうした」
女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
「死にました。……一週間前の夜です。警察は、雨の日のスリップ事故だって言いました。街灯に突っ込んで、即死だったって」
「事故か」
「嘘です!」
彼女はカウンターに両手を叩きつけた。薄い硝子のグラスが微かに震える。
「父がお酒を飲んで車に乗るはずがない! それに、父は亡くなる前夜、私にこのカードを渡して言ったんです。『俺が不自然に死んだら、警察へは行くな。それは事故じゃない』って……!」
ブレーキ痕のない単独スリップ事故。
警察の迅速すぎる処理。
私の胸の奥で、氷よりも冷たい何かが音もなく沈殿していった。
組織の「後始末班」の定石だ。ステアリングの油圧ラインに微細な亀裂を入れ、雨の夜の急カーブで確実に車輪をロックさせる。目撃者もなく、証拠も残らず、書類一枚で処理される完全な暗殺。
二十年だ。
二十年間、あいつは名前を変え、息を殺し、ただの父親としてこの子を育ててきたはずだった。過去の血塗られた仕事から手を引き、ただ平穏な朝を迎えるためだけに。
それを、あの連中は。
そのとき、開け放たれたままのドアの外から、階段を降りてくる複数の重い足音が響いた。
「おいおい、本当にこんな穴蔵に逃げ込みやがったぞ」
下品な笑い声とともに、濡れた黒いレザージャケットを着た二人の男が姿を現した。
びしょ濡れの髪、充血した目、そしてポケットの中で何かを握りしめている右手。裏社会の末端で使い潰される、暴力に慣れきったチンピラ特有の匂いがした。
「見つけたぜ、お嬢ちゃん。親父の残したオモチャを返しな。大人しく渡せば、痛い目には遭わせねえよ」
先頭の男が、土足で店内に踏み込んできた。
泥と雨水が、手入れの行き届いた床に黒い染みを作っていく。
女は悲鳴を飲み込み、私の背後へ隠れようとした。
「おい、マスター」
男の一人が、私を一瞥して鼻で笑った。
「見ねえ顔だな。余計な首突っ込むんじゃねえぞ。その女をこっちに寄越しな。邪魔するなら、この店ごと灰にしてやる」
男はカウンターを乗り越えるようにして、女の腕を掴もうと左手を伸ばした。
私は動かなかった。ただ、カウンターの下に置いてあったナプキンを一枚手に取り、指先で小さく畳んだ。
「お客様」
私の口から出たのは、いつもの柔らかく、抑揚のないバーテンダーの声だった。
「あいにく、当店のラストオーダーは一時半でしてね。それに……」
「あ?」
「……雨の夜に、泥靴で店に入られるのが何より嫌いなんですよ」
男が苛立ちを露わにし、懐から右手を引き抜こうとした——その瞬間だった。
私は右足の爪先で、床に落ちていた水滴をわずかに擦り、カウンターを支点にして間合いを半歩詰めた。
男がジャケットの内側から黒い拳銃のグリップを握りかけた刹那、私の左手のナプキンが男の視界を正確に塞いだ。
「なっ——」
光を奪われた男の反射的な怯み。その一瞬の隙に、私の右手の掌底が男の右肘の内側を鋭く叩いていた。
ボキリ、と鈍い音が響く。
男の右腕が不自然な方向に曲がり、握りかけの拳銃がコートのポケットの中に滑り落ちる。男が苦痛で声を上げるよりも早く、私は男の襟首を掴み、カウンターの角に向かって重心ごと引き倒した。
ゴッ、と木が軋む重い音が一度だけ鳴り、男は声もなく床に崩れ落ちた。
「ヒッ……!?」
後ろに控えていたもう一人の男が、目を見開いて立ち竦んだ。
彼が見たのは、大立ち回りでも乱闘でもなかった。ただのバーテンダーが、グラスを拭くような静かな手際で、自分の仲間を一瞬で無力化したという異常な光景だった。
男が恐怖に駆られて懐に手を伸ばしたとき、私の右手はすでに動いていた。
手元にあったのは、先ほどまで氷を削っていた、刃渡り十センチの鋼のアイスピック。
私が踏み込んだ風圧すら感じさせない速度で、その切っ先は、男の喉笛の皮膚のわずか一ミリ手前でピタリと静止していた。
「動くな」
私の口から漏れたのは、もうバーテンダーの声ではなかった。
体温の完全に抜け落ちた、ただの道具としての声だった。
男の喉仏が、引き攣るように小さく上下した。アイスピックの先端が、その動きに合わせて微かに皮膚を押し込む。赤い血が、針の先ほどの点となって滲み出た。
「連れを連れて、ここを出て行け」
私は男の目を見据えたまま、静かに言った。
「お前の雇い主に伝えろ。『モルグ』は満席だ、と」
「わ、わかった……! 頼む、引いてくれ……!」
アイスピックを静かに引くと、男は腰を抜かしかけながら床の仲間を抱え起こし、脱兎の勢いで階段を駆け上がっていった。
湿った夜の風が吹き抜け、やがて表の通りに遠ざかる車のスキール音が響いた。
店内には、再びチェット・ベイカーの乾いたトランペットの音だけが残された。
私はアイスピックをリネンで拭い、カウンターの上に置いた。
それから入り口のドアへ歩み寄り、冷たい雨の夜気に向かってドアを閉め、頑丈なサムターンを二重に回した。真鍮のプレートを裏返し、『CLOSED』の文字を表にする。
振り返ると、女はカウンターの隅で、床にへたり込んだまま私を見上げていた。
その瞳には、先ほどの追手に対するものとは違う、底の知れない恐怖と戸惑いが浮かんでいた。
「……あなた、は……」
私は答えず、バックバーへ戻った。
小鍋に少量の湯を沸かし、厚手の耐熱グラスに角砂糖をひとつ落とす。クローブを二粒、シナモンスティック、そしてスコッチウイスキーを注ぎ、沸かした湯で満たした。甘くスパイシーな香味が、雨の湿気を押し返すように立ち上る。
グラスを、震えている彼女の前のカウンターに静かに滑らせた。
「ホットトディだ。温まる」
私はエプロンを外し、折りたたんでカウンターの隅に置いた。
「すまないが、もう営業時間は終わりだ。……だが、話を聞く時間くらいはある」
彼女は湯気の立つグラスを両手で包み込み、すがりつくように顔を埋めた。
その肩が、小さく震えている。
私はカウンターの上の古いCFカードを見つめた。
二十年前に死んだはずの男からの、最後の通信。
胸の奥で、二度と引かないと誓った引き金の感触が、冷たく蘇り始めていた。
「名前を聞いていなかったな」
私が尋ねると、彼女はグラスから顔を上げ、濡れた瞳で私を見つめ返した。
「……シオリです。水無瀬、シオリ」
水無瀬。
やはり、そうだった。
私は目を細め、小さく息を吐き出した。
「そうか。……長い夜になりそうだ、シオリ」
第1話・了




