男なら惚れた女は命懸けで守れ
俺の足は、自分の意思を裏切るようにガタガタと震えている。
目の前の男と戦うべきじゃないって、全身が逃げろと言っている。
これまで戦ってきたどんな悪魔よりも強く、理解不能な力を使う。
俺が攻撃を認知した時には体にダメージが入っていて、常に薄く防御魔術を発動させてるのにそれを無視してきやがる。
足元には無数のナイフが突き刺さっていて、それはさっきまで存在しなかった物だ。
俺の意識や感覚が捉える前に、男が何かしらの魔術を使って放ったのだろう。
当てることも出来たろうに。
これが英雄か、いったいどれだけの力量差があるのか、もうそれすらわからない。
「母さんが見ていたら、絶対に逃げろって言うだろうな」
俺の親父、そして憧れの英雄バルトロスから譲り受けた、煌びやかな金と銀の二丁の銃。
かつてはその輝きに誇らしさを感じ、持っているだけで無敵になれた気がしていた。
けれど今、この手に握る銃は、泥を詰めた鉄塊のようにひどく重い。
引き金にかけた指先さえ、自分のものとは思えないほど感覚がなかった。
「そろそろさ、諦めてくんね? 見てるこっちが辛いんだけど」
目の前の黒髪の男、クォーツが呆れたようにため息をつく。
男の指先で弄ばれているのは、一振りのナイフ。
月光を吸い込んで鈍く光るその刃渡りは、俺の細い身体なんて、紙切れみたいに簡単に貫くと静かに警告しているように、殺意を放っている。
「黙れ……ッ!」
喉の奥がカラカラに乾き、肺が酸素を拒絶するように引き攣る。
奥歯を噛み締めなければ、今にも情けない悲鳴が漏れ出してしまいそうだった。
「死」という冷たい刃が、じりじりと肌を撫でている。
逃げ出したい。
泣き叫んで許しを請いたい。
もし俺一人の命で済むなら、俺は間違いなくそうしていただろう。
そんな本能が、俺の誇りを内側から食い破ろうとしていた。
だが、死の恐怖を圧し殺し、俺は必死に言葉を絞り出した。
「あのさ、そこの女の子を渡してくれるだけでいいんだってば! 君を殺すのが目的じゃないんだよ?」
クォーツが、俺の背後で倒れている彼女に視線を向ける。
そこには、高熱にうなされ、意識を失って荒い息を繰り返す白髪の少女がいた。
「……だから、渡さねぇって……言ってんだろッ!」
ここで俺が逃げたら、次に彼女と、ロスと会った時、俺は一体どんな面をすればいい?
逃げて、助かって、無様を晒して英雄の息子を名乗るのか?
そんなの……死んでも御免だ。
『いいかルイサ、男なら惚れた女は命を懸けて守れ』
脳裏に響くのは、俺の憧れた"カッコいい親父"の声。
たとえ滑稽だと笑われても。
空に浮かぶ不吉な赤色の月さえ、無様に足掻く俺を馬鹿にしていようとも。
俺が立ち上がり、千切れそうな筋肉を叱咤して銃口を向ける理由は、ただ一つ。
「惚れた女は命懸けで守る……親父とした約束だけで十分だ」
俺は英雄なんかじゃない。
英雄の出来損ないの息子で、英雄には程遠いガキでしかない。
それでも、きっと。
「こいよ、英雄。……俺からロスを奪えるもんなら、奪ってみろよ!」
虚勢を張って、痛みに耐えて銃を握って構える。
親父なら、きっとこうしたに違いない。
絶対に、逃げたりはしない!
「はぁ、下手に実力があるのが一番困るんだよね、手加減の具合とか色々考えないといけないし……さっきより、ずっと痛むと思うからさ。降参したくなったら、いつでも言ってよ?」
クォーツの姿が、揺らめく影のように掻き消える。
「俺は、俺の女を攫おうとしたお前を……例え親父の仲間だったとしても、絶対に許さないッ!!」
極限まで圧縮した魔力が、金と銀の銃身の中で狂ったように唸り声を上げる。
「壊滅たるバルトロスの息子、蒼光たるルイサがお前を討ち滅ぼす!」
俺の咆哮とともに、紅い月の夜が、眩いばかりの魔力光で塗り潰された。
弱かった俺が、今や親父と一緒に魔王討伐に行った男と対峙できている。
それはすべて……君のおかげだった。
彼女と出会ったのは、あの日。
俺が自分の弱さも、世界が抱える本当の絶望も知らない、ただのガキだった頃。
今の俺が握っているこの金と銀の銃ではなく――見たこともない異質な"白と黒の銃"を背負った彼女が、俺の前に現れた日。
ああ、そうだったよな。
極度の緊張で跳ねた心臓の音が、遠い記憶の扉をこじ開けた。




