第80話 ベラシアさんに、殴られていた
力強く殴打する衝撃が、ほおを打ち抜く。
視界が一瞬、白く弾けた。歯の奥が、じんと痺れる。
「つ~っ……気は済んだかな?」
痛みを堪えながら、僕はベラシアに問いかけた。
応接間には、重苦しい空気が漂っていた。窓から差し込む朝日が、空しく床を照らしている。
昨夜のことが、まるで嘘のように穏やかな光だ。
「ふん、この一発程度で気が済むわけないだろ」
ベラシアの漆黒の瞳が、僕をにらむ。
その拳は、まだ握られたままだ。褐色の額に浮かんだ血管が、怒りの深さを物語っていた。
「悪いけど、これ以上はよしてくれないかな」
彼女の怒りは当然だ。
フェリシアが毒を盛られたのは、僕のそばにいたからだ。僕を敵視する者が、彼女を巻き込んだ。
「アタシは、言ったよな? フェリシアは幸せか、って? フェリシアは、幸せになる権利があると思ってるんだ」
「ああ……すまなかった」
そこに言い訳はしない。
フェリシアを守れなかったのは事実だ。幸い、魔力の循環による応急処置が功を奏し、彼女の容態は安定している。だが、危険な状況であったことに変わりはない。
あの馬車の中で、僕は久しく感じていなかった恐怖を覚えた。身近な人を自分のせいで失うかもしれなかったことに。
「ふんっ、その殊勝な態度に免じて、今回は許してやる」
ベラシアが鼻を鳴らす。
その長い耳が、不満で昂った感情にあわせピクピクと動いていた。しかし、握られていた拳が、ゆっくりと開かれる。
「助かるよ。あんな一撃を何発も食らったら、これからの行動に支障が出る」
「で、どうするつもりなんだ?」
ベラシアの声に、真剣な響きが混じる。
彼女は壁に背を預け、腕を組んだ。漆黒の髪が、朝日を受けて鈍く光っている。
僕はソファに腰を下ろし、ゆっくりと言葉を選んだ。
「黒幕は、わかっている……今回のことは、向こうにとって、あくまで嫌がらせに過ぎないんだろう。嫌いな相手が大事にしている人形をボロボロにして、喜んでいるようなものだ」
「気分が悪くなる話だ。アタシらがオマエの物のような扱いされていることも含めてな」
その言い方に、苦笑する。
敵はフェリシアを、僕の「所有物」として狙った。彼女自身ではなく、僕を傷つけるための道具として。その発想は間違えていないだろう。そして、それは僕たちとは絶対に相容れない敵だ。
「君だって、僕の噂を聞いてたんだろ? 君もきっと僕の愛人扱いされているさ」
「フェリシアの報復をするんだろ? アタシも協力してやってもいい」
一歩前に、僕の眼の前に立つ。
その目には、戦意がたぎっている。暗殺者にふさわしい、黒く暗い炎のような煌めきだった。
「悪いけど、君の力を借りるつもりはないよ」
「そりゃそうか、得体の知れない暗殺者は信じられないだろうさ。でもね……」
「待った。それは違う」
右手を広げて、彼女の言葉を遮った。そこは勘違いされたくない。
「なにが違うんだい?」
ベラシアの眉が、ぴくりとつり上がった。
僕は、その目をまっすぐに見つめ返す。
「君の腕も人柄も信じているよ。今の状況は、相手ひとりを暗殺して終わるようなもんじゃないんだ。それで済むなら、僕がとっくに手を下している」
「つまり、それほどの相手ってことかい?」
「ああ……暗殺して気が済むのは一瞬だけだ。それに、トップを失って統率できなくなった、相手の残り勢力がどんな手段に出てくるかわかったものじゃない。やるときは勢力ごと、まとめて処理する必要がある」
そこまで聞いて、彼女は一歩下がった。目をつぶって思案するように小さくうなづいた。
「慎重だな。まぁ、闘士はいつでも冷静であるべきだ。その姿勢は認めてやる」
「僕は臆病なだけさ。普通の人より丈夫で、バケモノと呼ばれるくらい魔術が使えると言っても、決して万能なんかじゃない」
ベラシアが目を開けて、ふっと息を吐く。
「自然の中で最後まで生き残れるのは、強いヤツでも偉いヤツでもなく、自分が弱いことを知っているヤツだ」
どこか懐かしげな声が、静かに響く。
窓辺に立つ彼女のシルエットが、朝日で淡く縁取られている。
「強いヤツはなにも考えないし、偉いヤツはなにもしようとしない。自分が弱いと知っているヤツは、生き残る方法を考えるし、なにをするにも躊躇わない」
「それは?」
「エルフ族の闘士に教えられる訓戒みたいなもんだ。今のオマエに相応しいだろ?」
赤い唇の口角が緩んだ。
それは皮肉でも嘲笑でもなく、ただ純粋な称賛だった。
外では、鳥たちが朝の歌を歌い始めている。フェリシアは隣室で眠っている。まだ完全に体力は回復していないが、毒の影響はもうない。疲労しているだけだ。
これから、僕がすべきことは決まっている。彼女を守るために、根本から問題を解決する。その準備を始めよう。




