第78話 フェリシアさんが、苦しみだしていた。
馬車が小刻みに揺れながら街道を進んでいく。
夜会場から屋敷への帰路は、星明かりに照らされた静かな道のりだった。車輪が石畳を踏む音だけが響いている。
窓の外には、王都郊外の街並みが広がっている。銀色の光を浮かび上がるシルエットは、宴会場の騒がしさとは無縁だった。
「やれやれ、やっと解放された……」
疲労感が全身にのしかかる。
踊りすぎた足は、今もじんわりと熱を持っていた。座席に深く身を沈めると、革張りのクッションが背中を受け止めてくれる。
隣に座るフェリシアは、黙ったまま僕の肩に寄りかかってきた。
銀色の髪が、僕の肩口に柔らかく触れる。彼女の持ち歩いている香り袋の匂いが、かすかに鼻をくすぐった。
「ん? 疲れて寝ちゃったのか?」
返事がない。
代わりに聞こえてきたのは、規則的な呼吸音ではなく、荒い息遣いだった。
「……はぁ、はぁ……」
「!!??」
異常だ。
フェリシアの顔に手を当てると、異様な熱を帯びている。まるで真夏の日差しを浴びたかのような熱さ。
「くっ、うっ……」
「お、おい、フェリシアっ!? どうしたっ!?」
慌てて彼女の身体を支える。
銀髪が乱れ、いつもは涼しげな顔に苦悶の色が浮かんでいた。長い耳が、力なく垂れ下がっている。額には汗が滲み、普段は白いほおが不健康な赤みを帯びていた。
「……ご、主人、様……申し……わけありま……せん……」
途切れ途切れの言葉。
離れようとする気配を感じた。僕は反射的にフェリシアの身体を抱き寄せる。
「離れなくていい、辛いなら僕に寄り掛かってろ!!」
「あっ……くぁっ……」
腕の中で、彼女の身体が小さく震えた。
体温が異常に高い。高熱病の症状に似ているが、そんな前兆はなかったと思う。となると……
「これは、〈火蠍の毒〉か?」
妙に低い声が出た。
記憶の中の知識が、次々と浮かび上がる。分類としては神経毒。体内の保有魔力を乱す。人間族よりも魔力の強いエルフ族に深刻な影響を与える毒薬。入手経路は限られているが、決して入手できないわけでもない、裏の伝手さえあるならば。
「……レジスト リヴィン リカバリィ……《毒素対抗》! ……レジスト ディクリース センス……《苦痛対抗》!!」
口早に詠唱し魔術を行使すると、淡い青白い光がフェリシアの身体を包む。
応急処置だ。毒の進行を遅らせ、苦痛を和らげることしかできない。根本的な解毒はできない。
「……はぁ、はぁ……」
けれど、彼女の呼吸が、わずかに落ち着いた。
苦しげに歪んでいた顔が、ほんの少しだけ和らぐ。だが、体温は依然として高いまま。
(いつからだ? いつから様子がおかしかった!? なんで僕は気付かなかったんだ……)
自分への怒りが込み上げる。
夜会の間、フェリシアはずっと僕のそばにいた。なにか異変があれば気づくはずだった。なのに、僕は気づけていなかった。
(マズいぞ、これが本当に〈火蠍の毒〉だとしたら、僕の魔術では解毒できない……医療魔術の専門家じゃないと……しかし、この状態だと長くは危険だ……)
屋敷に着くまで、まだ時間がかかる。
仮に着いたとしても、こんな時間に医療魔術師を呼べる保証もない。
「ご、しゅ……」
「無理に喋らないでいい! 今は、体力を温存させて……」
「わ、かり……」
フェリシアの声が途切れる。
彼女の緑の瞳が、苦しげに閉じられた。長い睫毛が震えている。
(僕が毒を受けたなら問題はなかったのに……いや、向こうも僕に毒が効かないことは知っている……だから、フェリシアを狙ったのか!?)
夜会場で最後に出された葡萄酒。
あのとき、給仕の娘が持ってきたグラス。フェリシアも同じものを飲んでいた。僕には一切影響もなかったが、彼女には……
「くそっ、なにか、なにか方法はないか!! 考えろっ!!」
頭の中を、あらゆる可能性が駆け巡る。
馬車の揺れが続く中、僕は腕の中で苦しむフェリシアを抱きしめたまま、必死に考え続けた。




