第77話 ユキトは、踊り疲れていた。
夜会場の中庭に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
篝火の光が揺れ、手入れの行き届いた庭木が夜の帳に浮かび上がっている。広間の喧騒が嘘のように、ここは静かだった。
「お疲れ様でした。ご主人様」
フェリシアの声が背中から聞こえる。
抑揚のない声だが、いつもにはない楽しげな気配がした。
「ねぇ、君たちは、僕をどうしたいの? 交互に十曲連続休みなしで踊らせるって、ひどくない?」
足が悲鳴を上げている。
ダンスそのものは得意でも苦手でもないし、軍に属しているだけに体力にも自信はある。が、さすがに限界もある。
「どこがひどいのでしょうか? 教えていただけますか?」
振り返ると、フェリシアの冷ややかな視線と目が合った。
そこに同情の色は、欠片もない。
「……うう、ごめんなさい」
謝ってしまった。なにが悪いのかもよくわからない。
石造りのベンチに腰を下ろすと、全身から力が抜けていく。
「わかればよろしいのです。それに、途中からこっそり自身に魔術を掛けて、肉体の性能を強化されてましたよね」
バレていたか。
「よく気付いたね。軽く強化したけど、この手の魔術って、反動で疲労がすごいんだよ……その疲労を魔術で癒すと、次は精神的な疲労がくるわけで……」
魔術で身体能力を上げることはできる。
だが、その代償として、後からまとめた以上の疲労が押し寄せてくる。高利子の借金みたいなものだ。
「そもそも、ご主人様がハッキリしないのがいけないのです」
フェリシアの指摘が淡々と始まった。
「最初にどちらと一緒に踊るかで迷い、曲の長さを考えずに長々と踊り、挙句の果てにワルツのステップを踏み間違えたフリをしてリラ様に……」
「そ、それはフリじゃなくて、本当に間違えたんだって! 何度も説明しただろ! リラだって話したらわかってくれたし!!」
あのときは本当に間違えたのだ。
フェリシアと踊った後でリラと踊り始めたら、足の運びがわからなくなって事故をおこしてしまったのだ。決して故意ではない。
「フッ……」
「鼻で笑われたっ!?」
一瞬、フェリシアの肩が小さく震えた。
笑いを堪えているのかと思ったが、次の瞬間にはいつもの涼しい顔に戻っている。
「まぁ、そういうことにしておきますが……ところで、この後はどうなさりますか?」
「そうだね。ちょっと涼んだら、オルディス様に挨拶をして帰ろう。ミーナちゃんも待っているだろうしね」
「かしこまりました」
そのとき、給仕の娘がこちらに近づいてきた。
銀の盆には、グラスがいくつか並んでいる。
「お客様、お飲み物はいかがでしょうか? 本日は、こちらの葡萄酒がお勧めですが」
「ありがとう、それじゃあ、僕はその葡萄酒を。フェリシアは?」
「では、同じものを……」
「どうぞ。それでは、お楽しみください」
給仕娘が一礼して去っていく。
グラスを手に取ると、深い赤紫の液体が揺らめく火の光を受けて煌いた。
「それじゃあ、夜会が無事に終わりそうなことを記念して、乾杯」
チン、と澄んだ音が響く。
「乾杯」
フェリシアも、同じようにグラスを傾けた。
口に含んだ瞬間、芳醇な香りが鼻に抜け、舌に深い味わいが染み渡った。
「ん、さすがはルーファス大公様の夜会だね。出てくる葡萄酒もランクが違う」
舌の上で転がすと、果実の甘みの後に、かすかな渋みと旨味。複雑で繊細な味わいだ。
「これ一杯で、僕が普段飲んでいる葡萄酒が数瓶、下手したら樽ごと買えるんだろうなぁ……こっそり一本持って帰ろうかな」
「ご主人様……」
フェリシアの視線が、急激に冷たくなった。
その眼差しは、氷のごとく。
「じょ、冗談に決まってるよ……?」
「それにしては、ずいぶんと表情が本気のようでしたが?」
いや、半分は本気だったが。相変わらず、僕の心を読んでくる。
「くっ、男には避けて通れない戦いというものがあるのさ」
自分でも、なにを言っているかよくわからないが、パッションに任せて言い返す。
「カッコイイことを仰っていますが、葡萄酒一本分とは、ずいぶん安い戦いですね」
完敗だった。
夜風に乗って、広間から微かに音楽が流れてくる。夜会はまだ終わらない。この規模だと、朝日が登るまで続くだろう。
疲れた身体を癒しながら、僕は残りの葡萄酒をゆっくりと味わう。
隣に立つフェリシアの銀髪が、月明かりに照らされて静かに輝いていた。




