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第72話 ユキトは、迷っていた。

 書斎の椅子に沈み込んで、僕は深いため息をついた。

 机の上には一通の封書。象牙色の上質な紙に、金糸で縁取られた家紋が押印されている。開封してから何度も読み返したが、内容は変わらない。


「…………はぁ」


 もう一度ため息。嘆いてばかりでは、なんにもならないのは分かっているが。


 コンコン。


 扉を叩く音に顔を上げた。


「ご主人様、お呼びでしょうか?」


 いつものように背筋を伸ばし、長い銀髪を揺らしながら入ってくる。違いは、わずかに首を傾げている。

 僕が理由もなく、ただ呼んだのが珍しいのだろう。


「うん、まぁ、ちょっと訊きたいことがあってね……」

「何でしょう?」


 抑揚のない声。それでいて、どこか期待するような気配が漂っている。嫌な予感がした。


「昨晩のハンバーグの隠し味は、"ニン"で始まる赤い野菜ですが」

「な、なんだって、トマトソースで(だま)したなっ!?」


 あのハンバーグ、普段食べ慣れないソースがかかっており、確かに美味しかったけど、まさかそんな罠が仕掛けられていたとは。


「ふっ……」


 フェリシアの口元がかすかに緩む。表情筋はほとんど動いていないのに、勝ち誇っているのが伝わってくるぅ。


「く、そんな勝ち誇った顔をされると……うわ、かなり悔しい」

「ご主人様の胃袋の支配権及び統治権は、今や私のものです」


 淡々とした宣言。敵国の領土を占領した将軍のような物言いだった。


「"ジン"で終わる赤い野菜を食べないと禁断症状を起こすようになってしまうのも、もはや時間の問題……」

「いやいや! それはなんか別の問題だよ!!」


 なんの問題かはわからないが、とにかく穏やかではない。そんな赤い野菜は嫌だ。


「ご主人様、近代において食事は基本的に一日三食です。一年は三百六十五日、ご主人様が後五十年生きられるとして、残りの食事の回数は約五万四千回」


 フェリシアが指を一本立てた。


「食わず嫌いと言うのは、その約五万四千回の行為に対するデメリットでしかありません」

「かなり壮大な大問題になった!?」


 ただの食わず嫌いがなんでそんな話に? いや、確かに理屈的に食事の回数はあっているけど、どこかがズレている気がしてならない、


「……それで、私に訊きたいこととは何でしょうか?」


 あ、それだ、本題が全然進んでない。


「フェリシアさんのそういう切り替えの早さについていけないのは、僕が悪いのかな?」

「では、私が悪いと言うことにして、さっさと話してください」

「すっごく理不尽なことを言われている気がする!」

「で?」


 催促の視線が突き刺さる。とても楽しげな気配すら感じられた。今日もいい空気吸ってますね。


「あー、うん、この手紙を読んでもらえる?」


 片手で持て余していた封書を差し出した。受け取り、白い指先で便箋を開く。文面を追うその横顔は、いつも通り無表情だ。


「手紙? どうやら夜会の招待状のように見えますが……」

「うん、まぁ、そんなようなものかな……」


 僕は椅子の背もたれに身体を預けた。彼女から視線を外しながら言った。


「……夜会の主催は、ルーファス=マイム・ウェステリア大公様?」


 フェリシアの声がわずかに固くなった。


「ご主人様にとって、明らかに敵派閥のトップのようですが?」

「しかし、大公家の家紋が直々に押された正式な招待状だ。これを断るのは難しい」


 それが意味するところは、単なる社交の誘いではない。断れば角が立ち、応じれば何を仕掛けられるかわからない。どちらにせよ面倒なことになる。


「そういうものなのでしょうか……」


 フェリシアが小首を傾げた。エルフの社会にも似たような政治的駆け引きはあると思うけど……異国でメイドをやっているようなフェリシアの立ち位置はよくわからないしな。


「それで……」


 僕は言葉を切った。ここからが本題だ。


「フェリシアさんって、ワルツは踊れる、かな?」


 沈黙が落ちた。

 フェリシアの表情は相変わらず読めない。けれど、ぜひとも肯定的な答えを期待していた。

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