第7話 フェリシアさんは、知っていた。
「はぁ、疲れた……ただいまぁ」
玄関の扉を閉めながら、僕は疲れた声を出した。
今日は朝から晩まで、厄介な案件に振り回されていた。身体よりも精神的な疲労が大きい。
「お帰りなさいませ、ご主人様。今日は、随分とお疲れですね」
フェリシアが玄関で出迎えてくれる。いつものように、無表情だが丁寧な所作で僕の外套を受け取った。
「ああ、仕事の方でちょっと問題があってね……」
詳しくは言えない。言ったところで、彼女に迷惑をかけるだけだ。
そう思っていた僕の予想は、次の瞬間、見事に裏切られた。
「まったく、王子様の女癖の悪さにも困ったものですね」
「ッ!? なんでそれをっ!?」
僕は思わず声を上げた。
今日の案件は、レオン様の女性関係に端を発するものだった。それを、なぜフェリシアが知っている。
「『メイドさんネットワーク』通称MSNの最新情報ですから」
フェリシアは何でもないことのように答える。その無表情がかえって不気味だ。
「何それ、なんか怖っ!?」
「古参の『近所のおばちゃん井戸端会議』通称KOIと国を二分する諜報組織です」
諜報組織。物騒な単語が飛び出してきた。
いや、メイドさんのネットワークと井戸端会議が国を二分する諜報組織って、どういう国だ、ここは。
「いや、もう…………」
言葉を失う。何から突っ込めばいいのかわからない。
「MSNの最新情報によれば、王子様の正式な愛人は五名。しかし、今回は王子様の愛人を自称する女性による騒動……裏では、王弟派の残存勢力が関与して"いた"……という噂ですね」
フェリシアは淡々と続ける。
その情報は、恐ろしいほど正確だった。いや、正確すぎる。これは本当にメイドさんのネットワークから得た情報なのか。
「…………」
僕は黙り込む。特に気になったのは、「関与していた」という過去形の部分だ。
今日の仕事で、その勢力はだいぶ……まあ、そういうことだ。
「おや? どうかされましたか?」
フェリシアが小首をかしげる。
「なんで過去形なの?」とは訊けなかった。
訊いたら、何かを認めることになる気がした。
「無理はよろしくないですよ、ご主人様」
フェリシアの声が、わずかに柔らかくなった気がする。それは労りのようでもあり、警告のようでもあった。
「な、なんでもないよ?」
「しょうがありません。その悩みをスッキリ解消させましょう」
フェリシアはそう言って、リビングルームへ向かう。僕を促すように、ちらりとこちらを見た。
「いや、別に……」
「そもそもMSNとKOIの抗争の歴史はあまり古くなく、ここ十年の……」
「そっち!?」
僕は思わず叫んだ。てっきり、仕事の悩みを聞いてくれるのかと思ったのに。
「ご主人様、人が説明している間は静かにすると教わらなかったのですか?」
「知ってるけど。いや、別に謎の組織の抗争とか言われてもね」
メイドさんネットワークと井戸端会議の抗争の歴史なんて、知りたくもない。というか、そんなものに歴史がある事実が怖い。都市伝説的な怪談かな?
「……これは、失礼しました。勘違いしていたようです」
「勘違いというか、見当違いだったというか」
「王子様の愛人のプロフィールが知りたかったのですね?」
フェリシアは、あっさりと話題を変えてきた。
「…………あ、それはちょっと知りたい」
思わず食いついてしまった。
いや、仕事に関係する情報だから。決して興味本位ではない。断じて違うよ。
「では、夕食が終わりましたら詳しく……早くしないとシチューが冷めてしまいます、ご主人様」
フェリシアはそう言って、厨房へと向かっていった。
シチューの良い匂いが、廊下に漂ってくる。空腹を思い出し、胃が小さく鳴った。
とりあえず、王都の中では滅多なことはできない、ということはわかった。
僕は教訓を心に刻みながら、食堂へと向かう。
この国の壁には耳がある。いや、壁には長い耳がある。
油断は禁物だ。




