第63話 ユキトは、迫られていた。
その日の夜は、久しぶりに夜ふかしをしてしまった。
新しく手に入れた魔術書が面白く、気がつけばすでに月が高く昇っていた。寝室に戻り、ベッドに倒れ込むように横になると、ほどよい疲労が一気に押し寄せてくる。
「ふぁあああああ……」
あくびがひとつ、こぼれる。
後は睡魔に身を任せるだけだった。
コンコン。
扉を叩く音が響いた。
「ん?」
こんな夜更けに、誰だろうか。
訪ねてくる人物は限られている。この屋敷には僕とフェリシア、そしてミーナしかいない。
「フェリシアです。お邪魔してよろしいでしょうか?」
扉の向こうから、聞き慣れた声が届く。いつもと同じ、抑揚の少ない淡々とした響き。
「……どうぞー?」
僕は上体を起こしながら答えた。
扉が開き、フェリシアが静かに入ってくる。白と黒のメイド服が、ランプの明かりにぼんやりと浮かび上がった。
「失礼します」
「どうしたの? 何かあった?」
「……お疲れの所、申し訳ありません」
彼女は扉を閉め、ベッドの横に立った。
いつもの無表情。なんだか長い耳は静かに垂れている。
「いや、いいよ。こんな夜更けに寝室に押し掛けてくるほどの用件なんでしょ?」
僕がそう言った瞬間だった。
フェリシアの白い指が、メイド服の襟元にかかる。
するり、と。
音もなく、肩から布地がずり落ちていく。
「なっ!?」
僕は思わず声を上げた。
薄暗い部屋に、白い肌が際立って見えた。薄い肌着越しにフェリシアの胸元が見えそうだ。
「ご主人様のお情けを頂きたく……」
フェリシアの声が、妙にあだめいている。
いや、待て。待ってくれ。何が起きている?
「…………」
僕は言葉を失った。
目の前の光景が信じられない。フェリシアがどうして? 興奮よりも先に疑問が頭の中を埋め尽くす。
「私の身体では……満足いただけないでしょうか……」
彼女は一歩、近づいてくる。
甘い香りが鼻をくすぐった。いつものハーブの匂いとは違う、どこか作り物めいた芳香?
「…………はぁ」
僕は深くため息をついた。
そして、ベッドから立ち上がる。
「ご、ご主人様?」
戸惑いを含んだ声が聞こえた。
僕は目の前の「フェリシア」を、じっと見つめ。
「君は……どこの誰なのかな?」
静かに、しかし確信を持って問いかける。
「……え、"棘の氏族"のフェリシアですけど」
彼女は答えた。フェリシアなら、そう言い返すかもしれないと思わせる言動。
「《幻影崩壊》」
僕は短く詠唱を紡ぐ。
淡い光が指先から広がり、目の前の女性を包み込む。
「はっ!?」
驚愕の声と共に、「フェリシア」の姿が揺らいで消えた。
銀色の髪が漆黒に変わり、白い肌にわずかな褐色が差す。長い耳の形も微妙に異なっていた。
「いやぁ、焦った……」
予想通りに魔術が効いて、僕は胸を撫で下ろしながらつぶやいた。
目の前に立っているのは、フェリシアではない。見知らぬ黒エルフの女性だ。
「《誤認幻影|》は、使用魔力が微弱すぎて感知しないことがメリットだな。対象を演じ切れるなら《偽装幻影|》よりも、ずっと有効だ」
僕は腕を組み、彼女を観察する。
「しかし、ダークエルフの暗殺者に狙われるとはね。心当たりはないんだけど」
「なぜ見破れた……」
黒エルフの女性は、低い声で問い詰めてきた。その瞳には驚きと、どこか悔しさがにじんでいる。
「んー、真似できるくらいフェリシアを観察していたんだろ? 気付かないもんかな」
僕は肩をすくめた。
彼女の演技は完璧に近かった。仕草も、声の抑揚も、よく研究され、本物らしかった。
だが、決定的に違う部分があった。
「…………」
黒エルフは無言のまま、僕を睨みつけている。
「まぁ、いいや……」
僕は軽く息を吐いた。
「背後関係はきちんと白状してもらうつもりだよ」
月明かりが窓から差し込み、ふたりの影を床に落としていた。




