第60話 戦争が、始まっていた。
王宮の執務室は、いつになく重い空気に包まれていた。
「……戦争が始まったぞ」
陽光が窓から注ぎ込んでいるのに、どこか寒々しさを感じる。レオン様の手にした報告書を横目で眺めながら、紙面に並んだ文字をかいつまんで読み上げ、国境の状況を共有してくれた。
レオン様の声には、いつもの軽やかさがない。
椅子の背もたれに身を預け、深くため息をつく様子に影が落ちていた。
「事前の情報より若干遅かったですね」
僕はあえて淡々と応じる。
カリナからの情報では、もっと早く動き出してくるはずだった。何かしらの問題があったのだろうとは予測していたが、実際どうだったのか。
「軍の総大将は二番手の皇子らしい。七年前の総大将だった一番上の皇子とは異母弟で、母親同士がずいぶんと仲が悪いようだ」
皇帝の継承を前提とした闘争。
どこの国や家も似たようなものだ。権力を巡る争いは、血の繋がりすら引き裂く。
「そうですか」
「進軍の開始が遅れたのは、上の皇子側からの妨害工作が原因みたいだ」
レオン様が天井を仰ぎながら教えてくれた。
その姿は、ひどく疲れているようだ。気のせいではないだろう。
「どこも似たような物ですね……ウチとどっちがマシでしょうか?」
「『隣の芝生は青く見える』と言うが、他所の国に迷惑かけてない分、ウチのほうがマシじゃないか?」
レオン様は苦笑した。
その笑みには自嘲が混じっている。
「もっとも、うちの方がマシと感じるのは、一歩先んじている余裕もありそうですが」
「否定はしないさ」
七年前、僕たちは勝った。そのことが、国内におけるレオン様の立場を強くした。
あの戦争を思い出すと、気分が重くなるが、それだけの成果を得ている。
「それで? 戦争に関して、議会の決定は、どうなりましたか?」
「ああ、やっと軍の派遣を決定したよ。北の第三、第四、西の第六の三軍だ」
その組み合わせに眉をひそめた。あからさますぎる。
「それって……」
「あからさまに王国軍の王弟派ばかり、というより、直接叔父上の息が掛かっている師団だな」
大公派閥の動きが露骨になってきている。
レオン様の叔父――ルーファス大公は、自身の影響力を拡大させようと精力的に活動しているようだ。
「いよいよ進退きわまれりですかね」
「叔父上には、そろそろ早めの隠居と洒落込んでもらわないとな」
その声には、あからさまな棘があった。普段の飄々とした態度からは想像できないほど、その言葉には重みがあった。
ルーファス大公の行動は、起死回生の一手を打つしかない状況に追い詰められたゆえの行動でもある。
「まだまだ若いでしょうに、確か今年で四十六歳くらいではありませんでしたか?」
「ボクらより一世代違うじゃないか、そろそろ世代交代の時期だと思うのさ」
「否定はしませんけど」
肩をすくめる。
政治の話は好きではない。特に王族が関わってくる場合、判断を間違うわけには行かない。だから、レオン様の方針には従うことにしている。そして、それが僕の役目と誓っていたから。
「くっくっく……おぬしも悪よのお」
「いえいえ、王子様ほどでは……と返せばいいんでしたっけ?」
「よし!」
レオン様が満足げにうなずく。
その顔には、いつもの軽薄な笑みが戻っていた。執務室の空気が軽くなったような気がした。
「はぁ……それじゃあ、僕の方は引き続き、いざという時の根回しをしておきます」
「ああ、頼りにしている」
椅子から立ち上がり、一礼する。
王都の街並みが窓の外にいつもと変わらず広がっているが、遠くの空の下では、すでに血が流れ始めているのだろう。
「もしもの時の……覚悟は決めましたので」
その言葉に、レオン様の表情が引き締まった。
青い瞳が、真っ直ぐに僕を捉える。
「覚悟な……よく聞け。あの時のように、ひとりでは行くなよ、絶対にだ」
七年前の光景が、脳裏をよぎった。
燃え上がる森。逃げ惑う兵士たち。そして、一万人以上の命。
あの日、僕はひとりで戦場に立った。そして——多くのものを失い、失わせた。
「それは……」
「何、ボクが一緒に行くとまでは言わない。が、お前ひとりにすべてを背負わせるつもりもない」
「……わかりました」
その言葉を、胸の奥に刻む。
レオン様は、ふざけたことばかり言うが、ここぞという時の決断は誤らない。だからこそ、この人についていこうと思える。
新しい戦争が、始まった。




