第6話 休日は、訓練をしていた。
休日の午前中。僕は屋敷の裏庭で魔術の訓練をしていた。
王都郊外にあるこの屋敷は、敷地だけは無駄に広い。建物は小さいが、庭は馬が二頭ほど駆けまわれるくらいの余裕がある。
前の持ち主が馬好きだったらしく、厩舎が建ててあった跡が残っている。今は雑草が生い茂っているだけだが。
そんな裏庭の片隅で、僕は魔術の基礎訓練を繰り返していた。
「……トランスレイト オン イレイス アワー エネジー……」
古代帝国語の詠唱が、静かに空気に溶けていく。
身体の中で荒れ狂っていた魔力が、少しずつ収まっていくのを感じる。制御を失った魔力は、放っておけば心身を蝕み、魔術師にとって害になる。だから、定期的に鎮静化させる必要があった。
「……|《魔力沈静》」
詠唱を終え、魔術式を完成させる。淡い光が身体を包み込み、やがて消えていく。
その光は、見る者によっては美しく映るかもしれない。けれど僕にとっては、単なる訓練の一段落を告げる合図でしかなかった。
「……ふぅ」
額の汗をぬぐいながら、大きく息をつく。
「ご主人様、お茶の準備が整いました。少しご休憩いたしませんか?」
背後から、フェリシアの声が聞こえてきた。
振り返ると、彼女は屋敷の裏口に立っている。いつものメイド服姿で、銀のトレイを両手で持っていた。
「……もうそんな時間か」
僕は訓練用のローブから砂をはらい落としながら答える。
気がつけば、かなりの時間が経っていたらしい。今日は久しぶりの訓練で集中してしまっていたようだ。
日も高いところにあり、庭の木々の影が短くなっていた。
「ひとりでゴソゴソなさっているところに声をかけて申し訳ありません」
フェリシアは無表情のまま言った。その言葉には、何か含みがありませんか?
「ツッコまないからな。これはあくまで魔術のトレーニングだからな」
「ええ、ひとりで汗や色々なものを垂れ流していた所……お茶のお誘いは野暮でしたか?」
色々なもの、とは何だ。僕は何も垂れ流していない。
いや、汗は確かにかいていたが、それ以外はない。
「……ツッコんで欲しいの?」
「そんな……私の口から何を言わせたいのですか、ご主人様?」
フェリシアは小首をかしげる。その仕草だけなら可愛らしいのだが、言っている内容がまるで噛み合っていない。いや、噛み合わせる気がないのだろう。
「あああっ!! なんだろう、この敗北感っ!」
僕は思わず頭を抱えてうずくまる。会話のペースを完全に握られている。どうしてこうも毎回やられてしまうのか。
「のた打ち回って楽しんでいるところ申し訳ないのですが、そろそろテーブルについてください」
楽しんでないんですが?
フェリシアは淡々と告げる。相変わらず、表情は微動だにしない。
「いや、誰のせいだと…………」
言いかけて、やめた。言ったところで何も変わらないことは、十分に学んでいる。
僕は言い返すことを諦めて、裏庭に置かれた小さなテーブルに向かった。
庭木のそばにある白い布が敷かれたテーブルの上には、紅茶のセットと小さな皿が置かれている。葉の間から漏れる日の光が、テーブルクロスに柔らかな模様を描いていた。
「お茶を蒸らす間は少々暇ですので、おかげさまで良い気分転換になりました」
フェリシアはそう言いながら、ティーポットからカップにお茶を注いでいく。
琥珀色の液体が、細い流れを作りながらカップを満たしていく。湯気とともに、心地よい香りが漂ってきた。
「ん? このクッキーは?」
テーブルの上に置かれた小皿には、焼き色の美しいクッキーが並んでいた。
ひとつ手に取ってかじると、サクサクとした軽い食感が口の中に広がる。バターの風味が豊かで、甘さは控えめだ。
「今朝方、私が焼きました」
「へぇ、昨日の桃のゼリーも美味しかったけど、これも美味しいね」
「ありがとうございます」
フェリシアは軽く頭を下げる。その動作は相変わらず洗練されていて、無駄がない。
「料理もお菓子も上手だし、綺麗だし、フェリシアだったら、僕んとこじゃなくて、もっと良い所で働けるんじゃない?」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
実際、彼女ほどの腕前と容姿があれば、どんな名家でも引く手あまただろう。こんな小さな屋敷で、僕ひとりの世話をしているのは、もったいない気がしてならない。
「ご主人様、そんなお世辞を言われましても、お茶のお代わりくらいしか出せませんが」
「いやいや、お世辞じゃなくて、本心でさ」
僕は素直に答える。嘘やお世辞ではない。心の底からそう思っている。
「……天然ですか」
フェリシアが小さくつぶやいた。その声は、呆れとも感心ともつかない響きを持っていた。
「ん? 何か言った?」
「いえ、お給金についてはアイネ様に十分よくして頂いてますから」
アイネ。妹の名前が出てきた。
なるほど、給金の件は妹が手配しているのか。相変わらず抜け目のない妹だ。フェリシアほどの人材を確保するために、それなりの条件を提示しているのだろう。
そして、今までフェリシアの給金について、僕自身が気にしていなかったことに思いいたる。これは大人としてまずかったのではなかろうか。
「そっか、それならいいんだけど……何か困ったことない?」
「それでは、ひとつお聞きしてよいでしょうか?」
慌てて手数う稼ぎをしようとして、フェリシアに聞いてみる。
フェリシアの声が、わずかに真剣味を帯びた。
その変化に気づいて、僕は紅茶のカップを置く。
「ん、何が聞きたいの?」
「ご主人様は、なんで私を追い出さないのですか?」
意外な質問だった。追い出す? そんなことは考えたこともなかったけど。
「えーあー…………」
しかし、言われてみれば確かに不自然な状況ではある。
妹が勝手に送り込んできたメイドを、僕は何の抵抗もなく受け入れている。客観的に考えれば、もっと抵抗しても不思議ではないはずだ。
「ご主人様ほどの地位と財産でしたら、使用人のひとりやふたり雇っているのが普通です。なら、逆に使用人を雇うのを嫌っていたと考えるのが正しい答えかと」
フェリシアは淡々と分析を続ける。その観察眼の鋭さは、彼女らしいなと思った。しばらく一緒に暮らしてみて、僕から見たフェリシアの評価でもあった。
確かに、彼女の言うとおりだ。僕はこれまで、意図的に使用人を雇わずにいた。
「そうだね、まぁ、誰かと一緒に住む覚悟がなかった……ってことかな」
僕は正直に答える。それ以上でも以下でもない。
ひとりで暮らしていれば、誰かを傷つけることも、誰かに傷つけられることもない。そう思っていた時期があった。
「ということは、今はその覚悟ができた、と?」
「わからない。けど、妹の方は大丈夫だと考えたから君を送ってきた……んじゃないかな」
アイネは昔から、僕のことをよく見ている。僕自身よりも、僕のことを理解しているかもしれない。
そんな妹が、今のタイミングでフェリシアを送り込んできた。それには、きっと何か意味があるのだろう。
紅茶を一口飲む。温かい液体が、喉を通って胃に落ちていく。
木漏れ日が揺れ、テーブルの上の影が動いた。遠くで子供が遊んでいる声が聞こえる。
穏やかな休日の午後だった。




