第57話 ミーナちゃんは、人を助けていた。
下町の孤児院は、外だけではなく、中もだいぶ年季の入った建物だった。
窓枠の塗装は剥げかけ、壁の端には苔も生えている。それでも、部屋の外から聞こえる子供たちの笑い声が、温かな気持ちにさせる。
「はい、どうぞ! たくさん寝たから、ノドが渇いていると思うの」
ミーナが木製のコップを差し出した。
「ん……ありがとう」
ベッドに横たわっていた男が、身を起こしコップを受け取った。
赤みがかった髭が、憔悴した顔を覆っている。服はボロボロで、浮浪者のようにも映る。だが、どこか品のある物腰が、複雑な事情を抱えていることを示していた。
「ここは何処で、キミは誰だろうか?」
男は怪訝そうに周囲を見回した。
記憶が途切れている。意識を失う前のことを、うまく思い出せなかった。
「ここは下町の孤児院で、あたしはミーナだよ。おじさんは?」
ミーナの猫耳が、興味深そうにぴょこんと立った。
琥珀色の瞳が、好奇心に輝いている。
「ワタシは、バ……バルドと言う。そうだ、気を失う前にキミを見た覚えがある……命を救ってもらったようだな。礼を言う」
バルドと名乗った男は、深く頭を下げた。
その仕草には、身についた礼儀作法が感じられる。貴族か、あるいはそれに近い身分の出に見える。
「助けたのは、あたしだけじゃなくて、老院長さんと孤児院の子供達もだよ。みんなで倒れてたバルドさんを運んだの」
「いや、それでもキミが人を呼んでくれたのだろう? だから、キミがワタシの命を救ってくれたのは、間違いがない事実だ」
バルドの声には、誠実さがあった。
それがミーナには伝わり、彼女はにっこりと笑った。
「どういたしまして、かな」
ミーナは照れて、尻尾をゆらゆらと揺らした。
「何か礼をしたいと思うが……今は、何も持ってなくてな」
「別に何もいらないよ」
きっぱりと断った。
猫耳がぴんと立つ。
「しかし……」
「バルドさんを助けたのは、あたしのワガママだから。バルドさんが助かればいいんだよ」
ミーナの声は、まっすぐだった。
打算も、見返りを求める気持ちもない。ただ純粋に、目の前の人を助けたかった。それだけだ。
「それは、ワガママじゃないだろう」
バルドは困惑したように眉をひそめた。
普通、見ず知らずの不審者を助けようなどとは思わない。
「自分が助けたいから助けた。だから、ワガママなんだって。この間、あたしもある人に助けてもらったの。その時にその人が言ってたんだ。カッコ良かった?」
ミーナの瞳が輝いていた。
あの日のことを思い出し、その表情には、憧れている人への気持ちがあふれていた。
「その人の真似だって事をバラさなかったら、キミがカッコ良かったかもな」
「あ、そっか、そうだね! あはははっ」
部屋の雰囲気が変わった。少女の笑い声で温かく満たされていく。
「くっくっく……」
バルドも、つられて笑みをこぼした。
久しく忘れていた感覚だ。こんなに純粋に笑ったのは、いつ以来だろうか。
「そうだ、お腹は空いてない? 何かもらってこようか?」
「……いただいてもいいだろうか? 何も礼をできないが」
「うん、待ってて!」
ミーナは元気よく返事をして、部屋を飛び出していった。
猫耳の少女の後ろ姿を見送りながら、バルドは天井を仰いだ。
(ワタシは……何をしているんだろうな)
行く当てもなく、力尽きて倒れた。そこを、この少女に助けられた。
(いや、むしろ、これから……一体何をすればいいんだろうか?)
廊下の向こうから、子供たちが駆け回る足音が響いてくる。
バルドは目を閉じた。この孤児院には、自分のような者を匿う余裕などないはずだ。それでも、ここにいることを許されている。
答えは、見つからない。




