第51話 ミーナちゃんは、知らないでいた。
朝の光が寝室に差し込んでいる。
いつもよりやわらかな目覚めだった。枕元には、すっかり見慣れた猫耳の少女が立っていた。
「おはようございますー! ご主人さまー!」
ミーナの元気な声が、まだ半分眠っている僕の耳に届く。
小さな頭の上で、可愛らしい耳がせわしなく動いている。朝からこの子は元気だなぁ。
「……ん、あ、もうちょっと寝かせて……」
「えっと、『あんまりダダをこねると寝込みをいただいちゃいます』よー!!」
どこかで聞いたようなセリフだった。
いや、聞いたことがあるどころか、ときどきフェリシアが言ってくる脅し文句だ。
「頂くなっ! お願いだから、フェリシアさんに言われたことをそのまま言うんじゃありません……」
「お寝坊さんなご主人さまがいけないんだよ?」
ミーナは無邪気に首をかしげた。
琥珀色の瞳が、朝日を受けてきらきらと輝いている。純粋な目で見つめられると、弱い。とても弱い。
それがフェリシアの狙いだったとしても避けようがなかった。
「くっ……そんな純粋な目で見ないで、僕の負けだからっ!」
「あたしの勝ちー」
背中で尻尾が嬉しそうに左右に振れている。
仕方ないな、起きるか。布団の温もりが名残惜しいけど。
「でも、ダダをこねると、なんでシチューを食べるのかな?」
「うん、まぁ、煮込みじゃなくて寝込みね。詳しい意味はフェリシアさんに教えてもらって」
「ご主人さまは教えてくれないの?」
「フェリシアさんのほうが色々と教えやすいと思うから……着替えは、それ?」
ベッドの脇には、きちんと畳まれた衣服が置かれていた。
シワひとつない仕上がりは、間違いなくフェリシアの仕事だろう。
「うん」
ミーナはうなずいた後、少しだけ表情を曇らせた。
彼女の耳が、しょんぼりと垂れ下がる。なにか気になることがあるらしい。
「ところでご主人さま、その、フェリシアさんとケンカしたの?」
「なんでそう思った?」
「んっと、フェリシアさんがね。ご主人さまのことを呼ぶ時になんか変だった」
この子は、こういうところに敏感だ。
屋敷に来た頃は情緒不安定なところもあったけれど、最近は随分と落ち着いてきた。そのぶん、周囲の空気を読む力が育ってきたのかもしれない。
「喧嘩っていうか、うーん、なんだろ?」
「???」
なんて言えばいいかな。僕が首をかしげると、ミーナも一緒に首をかしげる。
僕自身、昨夜の状況をどう説明すればいいのかわからなかった。
「ミーナは、僕のこと好きって言ってくれるけど、僕と結婚したい?」
「結婚……うーん、ご主人さまとなら、結婚してもいいよ? アイジンだし!!」
その単語の意味を、この子は正しく理解しているのだろうか。いや、してないな。
アイジンを宣言している彼女の全身から喜びがあふれ出ていた。本人は素敵な言葉だと信じているのだろう。
「あー、アイジンの正しい意味も今度、フェリシアさんに教えてもらおうね……」
「う、うん?」
ミーナは不思議そうな顔をしている。
僕は深く息を吐いて、思いついた言葉を紡ぐ。
「僕はね。"誰かと結婚したい"って思えないんだ。いや、小さい頃は違ったはずだから、思えなくなった、かな? 今の僕は誰かと一緒になるのが怖い」
「なんで? ご主人様はあたしたちと一緒にいるよ?」
ミーナの声が、少し震えている。
頭上の耳が力なく倒れた。あ、まずいかも。
「それに……あたしに、この家にいる時は安心していいって言ってくれた……よ?」
琥珀色の瞳が潤んでいる。
しまったな。言い方が悪かった。
「あー、ごめん、ちょっと言い方が悪かった! その、泣かないでっ!」
僕は慌てて腕を広げた。
ためらいもなくミーナが飛び込んでくる。小さな身体が、ぎゅっと僕にしがみついた。
「うくっ……」
背中を軽くさすってやる。
大丈夫だと思った矢先にこれだ。ミーナの安心できる場所を失うことへの恐怖は、僕が想像する以上に深いのだろう。
「結婚するってことはさ、その、家族を……子供を作るってことなんだ」
言葉を選びながら、続ける。
「それでね、僕は、その事から逃げ出したいんだ。だから、ちょっとフェリシアさんに怒られちゃってね」
「フェリシアさんに怒られたの?」
「多分ね」
「だったら、ご主人さま……ごめんなさい、しないとダメだよ?」
ミーナが顔を上げた。
涙の跡が頬に残っているけれど、その表情は真剣だった。
「ぷっ……そうだね、怒られたら、ごめんなさいしないと、だね」
思わず笑ってしまった。
この子の言葉は、いつだってまっすぐだ。難しいことを考えすぎていた僕に、シンプルな答えを突きつけてくる。
窓の外では、小鳥たちが朝の歌を歌い始めていた。




