第50話 僕は、溜まっていた。
「フェリシアーーーー!!」
帰宅早々、僕は叫んでいた。玄関の扉を勢いよく閉める。
靴音を立てて廊下を歩く。今日は本当に疲れた。リラの態度がおかしくて、仕事中ずっと神経を張り詰めていた。
「お帰りなさいませ、ご主人様。ご帰宅早々、溜まっていらっしゃるのですか?」
フェリシアが廊下の奥から姿を現した。いつものメイド服姿で、表情は微動だにしない。
「ああ、ストレスで堪忍袋が表面張力ぎりぎりの満杯って感じかな!?」
「ストレス発散のために私を……」
「…………」
「…………」
沈黙が流れる。フェリシアが何かを言いかけて、止まった。緑色の瞳が、じっと僕を観察している。
「で?」
「いえ、結構、本気でお疲れになっていらっしゃるようなので少々自粛を」
珍しい。いつもなら、ここで追い打ちをかけてくるのに。
彼女なりに、どこかしら線を引いているのかもしれない。僕をからかうためのラインが知りたい。
「いつもそうしてくれると助かるんだけど」
「無理です。これは、気になる女の子にイジワルしちゃう男の子みたいなものなので」
僕は思わず立ち止まった。
「それだと、僕が気になる女の子で、フェリシアがイジワルしちゃう男の子? 普通逆じゃない!?」
「ご主人様が私にイジワルされるのですか? えっと、その、心の準備が……もじもじ」
棒読みだった。感情の欠片も感じられない「もじもじ」。僕は脱力して、壁に手をついた。
「自粛はっ!?」
「短い任期でした」
「あああっ、すごく久しぶりにもてあそばれてるよね、僕っ!?」
頭を抱えたくなる。今日はリラの態度がおかしくて、そのせいで疲れているのに。
書類を渡すたびに手が触れそうになり、リラが真っ赤になって固まる。何か言おうとして、言葉が出ずにうつむく。その度に、どうしていいかわからなかった。
なぜ、ガルムは休んでいるんだ。お師匠様の相手をしてくれているからだね、ありがとう!!
「それで、本日は何かあったのでしょうか?」
「そうだ! リラになにを吹き込んだっ!? いや、大体みてたけど!?」
「私とご主人様との男と女の関係をほのめかす冗談を少々」
「おかげで、仕事中はすっごく微妙な雰囲気でしたっ!」
思い出すだけで胃が痛くなる。
「誘惑に負けて、押し倒しそうにでもなりましたか? エッチなのはいけません」
「むしろ逆だよ! なんであんなに積極的になれるかな!」
叫んでから、しまったと思った。
フェリシアの緑色の瞳が、静かに僕を見詰める。
「……いい加減、ご主人様はリラ様の好意を認めてはいかがでしょう?」
声のトーンが変わった。いつもの皮肉めいた調子ではない。
真剣な響きが、胸に刺さる。
「ご主人様は、自分自身で考えるよりも、ずっと魅力的で、価値のある男性であることを理解してください」
「それは……」
言葉が続かなかった。
フェリシアの声には、普段は見せない感情の揺らぎがあった。
「ご主人様、メイドのフェリシアとして言わせていただきます。リラ様は……お嫌いですか?」
その問いかけが、胸の奥深くに突き刺さった。
嫌いではない。大切な部下だと思っている。真面目で、一途で、時々暴走するけれど、信頼できる仲間だ。
だから、それ以上の感情を抱いていいのかどうか、僕にはわからない。
七年前、あの戦場で失ったもの。救えなかった命。救わなかった命。僕には誰かと一緒にいる資格があるのだろうか。
「…………悪い、夕食はいらない。このまま寝る」
逃げるようにして、僕は自室へと向かった。
答えを出すことから、逃げている。その自覚はあった。でも、今は向き合えない。
「かしこまりました」
フェリシアの声が、背中に届く。
その声には、いつもの皮肉も、冗談も含まれていなかったな。
今はただ自分の足音が、やけに大きく感じられた。




