第46話 リラは、落ち着かないでいた。
食後、ユキト様からカリナさんと内密な話があると言われて、私が客間に案内されてから、どれくらい経っただろう。ユキト様の様子から、その話はきっと真面目な話だと察することができた。ちょっと怖い目をしていたから。
そう思っていても、私は椅子の上でそわそわと落ち着かない。膝の上で組んだ手が、何度も握り直してしまう。
部屋は清潔に整えられていて、壁には小さな風景画が掛けられていた。窓から差し込む月明かりが、木製のテーブルを白く照らしている。
この屋敷に来るのは初めてだ。ユキト様がどんな暮らしをしているのか、ずっと気になっていた。だから、こうして訪れる機会ができたことは嬉しい。
嬉しいはずなのに、胸の奥がざわついて仕方がない。この部屋をきれいに整えているのは、やっぱりあのきれいなエルフの人がやっているのだろうか。
「ねぇねぇ、リラさん、なんか心配してる?」
部屋にはもう一人、猫耳の少女が待機している。ミーナちゃんと名乗ってくれた子だ。
落ち着かない私を見て、不思議そうに声をかけてきた。猫耳がぴょこぴょこと揺れている。
「……ユキト様とあのカリナさんがふたりきりで……一体なんの話をしているのかと」
焦る気持ちが出てしまう。年下の子の前でみっともないとも思うけど。今日は色々とありすぎた。
カリナという女性の艶やかな笑みが、脳裏にちらついた。あの妖艶な雰囲気。ユキト様が心を奪われたりしないだろうか。
「大丈夫だよー、フェリシアさんが大丈夫って言ってたんだから」
「それのどこが大丈夫の根拠なんです!!」
思わず声を荒げてしまう。ミーナは目を丸くした後、にっこりと笑った。
「んー、リラさんもご主人さまが大好きなんだねー!」
「あわっ!? な、なにを、仰いますかっ!?」
頬に熱が集まるのを感じる。琥珀色の瞳が、無邪気にこちらを見つめていた。尻尾がゆらゆらと揺れている。この子は、真っ直ぐなんだな。私は思わず取り繕ってしまい、なんだか気恥ずかしくなる。
「リラさんとご主人さまって、いつからの知り合いなの?」
「そ、そうですね……私が生意気な貴族の娘だった頃、夜会でお会いして……」
記憶が四年前へと遡る。
あの頃の私は、父の権威を自分の力と勘違いした、いけ好かない令嬢だった。周囲の者たちはみな、アスター公爵の娘という肩書きに頭を下げていた。それが当然だと思い込んでいた。
夜会の賑やかさから離れた廊下。
私は見知らぬ青年に声を荒げていた。
シャンデリアの灯りが、磨き上げられた床に反射している。遠くから聞こえる楽団の演奏が、廊下の静けさを際立たせていた。
「この無礼者っ!! 名を名乗りなさい!」
青年は困ったように頭をかいた。黒い髪に、どこか疲れたような目。身なりは整っているが、特別な家柄には見えない。
私の怒りなど、どこ吹く風という様子だった。
「いやぁ、アスター公爵の娘様に名乗るほどの名前はないな」
「私の父を知っていて、その態度を取るとは、よほどの覚悟があるのでしょうね!」
私の言葉に、彼は肩をすくめた。その仕草は、不思議と様になっていた。
「皮肉も通じないか……君は、アスター公爵の娘じゃない自分を考えたことがあるか?」
「は?」
予想外の言い様に、言葉が詰まる。
「若い貴族の子息から持て囃され、美辞麗句と共に謳われる君が、本当の君か?」
「何を仰りたいの?」
「彼らは君なんか見ていないぞ? 名前も必要ない"アスター公爵の娘"を見てるんだ」
その言葉が、胸に深く突き刺さった。
誰も私を見ていない。私という人間ではなく、父の娘という肩書きだけを。
今まで当然だと思っていた綺麗な世界が、急に濁った汚いモノのように感じてしまう。
「…………」
返す言葉が見つからなかった。
「なんてな、僕も似たようなものだけど……名前を知られてないことがこんなに嬉しいとはね」
青年は苦笑した。その表情には、どこか寂しげな影があった。
私を責めているわけではない。むしろ、優しい目つきで私を見ている。
「おっと、王子様も一段落したみたいだな。それでは良い夢を、可愛らしいお嬢さん」
彼はそう言い残して、夜会の人混みへと消えていった。
その背中を見送りながら、私は胸の奥に灯った小さな炎に気づいていた。
「……と、それから色々あって、ユキト様の名前と立場を知ってね」
懐かしい思い出を猫耳の少女に一気に話して、私は小さく息をついた。
あの日から、私は変わろうとした。父の娘ではなく、リラという名前の人間になるため。
「本当にご主人さまとの話? なんか……ちょっと違う感じがする」
ミーナちゃんが首をかしげる。猫耳がぺたんと横に倒れていた。
「もう四年前の話です。それにミーナちゃんは、きっと最初から身内だったから」
「???」
よく理解できていないことが、言わずとも伝わってくる。私は微笑んだ。
この子は、ユキト様の優しさを自然に受け入れている。あの頃の私のように、構える必要もなく。
それがなんだか羨ましくて、同時に嬉しくもあった。
「ふふふっ、今度一緒にお茶しましょう? その時にゆっくり聞かせてあげるわ」
窓の外では、月が雲間から顔を覗かせていた。
階下の物音が、かすかに聞こえてくる。ユキト様たちの話し合いは、まだ続いているのだろうか。
胸の奥のざわつきは消えないけれど、今は待つしかない。




