第41話 リラは、色々悩んでいた。
午前の書類仕事が一段落した。
積み上げられた書類の山が、いつもより高くなっている。普段は三人いる空間も、今日は妙に広い。
ガルムの席が空いているせいだ。ひとりいないだけで、部屋が広く感じてしまう。普段は軽口を叩き合う相手がいないというのは、こう微妙に寂しいものだ。しかし、彼は尊い犠牲だった。
「きょ、今日はガルムが遅いですね。寝坊でしょうか」
リラが書類から顔を上げて訊いてきた。真面目な彼女らしく、遅刻などの不真面目な行為に対しては表情が険しくなるらしい。
「ああ、今日は病欠で休むって連絡を事前に受けてるよ」
「事前に……それはズル休みというのでは?」
リラの声に咎めるような響きが混じる。眉がわずかに寄せられ、彼女らしい反応だ。規律を重んじる性格は、軍人に適していると、心の中の評価シートに二重丸をつける。
「ほら、昨日突然来たお婆さんがいたでしょ? 僕の師匠で、ガルムの実祖母なんだけど」
「あ、そうだったのですか」
彼女の表情がほんのりと和らいだ。例の乱入者が、我々に近しい人だと知れば、昨日の騒動も多めに見てもらえるようだ。
「でまぁ、なかなかの女傑でね。その人との付き合いで、ちょっとね」
ちょっと、というのは控えめな表現だ。師匠と過ごす時間は、戦場にいるのと同じ精神的消耗を伴う。ガルムが逃げ出したくなる気持ちは、痛いほどわかる。僕だって、できるだけ逃げたい。
「事情があるのでしたら、単純に責めるわけにはいきませんね」
羽根ペンを置いて、椅子ごとこちらを向き、なんとか納得したように肯定してくれる。
「だから、ガルムはしばらく休むことになると思う」
その言葉を聞いた瞬間、リラの表情が一瞬固まった。
それから、みるみるうちに頬が赤く染まっていく。まるで熟した林檎のように、耳の先まで紅潮している。
「そ、それは……数日間は部屋でふたりっきりなのですね……ふたりっきり、あうう」
彼女の瞳がどこか遠くを泳いでいる。焦点が合っていない。口がぱくぱくと動いて、何か小さな声でつぶやいているようだった。
あ、そうか、単純計算で仕事量が五割増しになるわけで、多忙になってしまうことに困惑しているのだろう。
「そうなっちゃうね。仕事が大変になるかもなんで、ごめんね」
「い、いえ、色々とがんばります!!」
勢いよく立ち上がりかけて、慌てて座り直した。椅子が倒れそうだったが、座り直したことでなんとか倒れなかった。
「色々……?」
色々とは何だろう。まぁ、やる気があるのは助かるけど。
そこで、僕は大きく欠伸をしてしまった。口元を隠す余裕もなかった。昨晩はほとんど眠れなかったのだ。フェリシアとの会話が頭の中でぐるぐると回って、目を閉じていてもなかなか寝付くことができなかった。
「な、なんだか、眠そうですね!?」
リラが慌てたように話題を変えてくる。ばっちり見られてしまったらしい。
「うん、ちょっと昨晩は眠れなくてね」
「何かあったのですか?」
心配そうな声だ。どことなく、彼女がぎくしゃくと細かく揺れている。
「いや、ちょっとフェリシア……あ、うちの使用人なんだけど、そのフェリシアのせいで眠れなくてね」
リラの動きがぴたりと止まった。
まるで時間が止まったかのように、彼女は微動だにしない。
「!!??」
「まったく、こっちが降参してるのに許してくれないんだから……」
昨晩のことを思い出す。過去の約束を思い出せと言われても、何も出てこないのだ。僕の記憶力の問題なのか、それとも本当に忘れてしまったのか。
フェリシアは「凹んでいない」と言っていたが、あの長い耳は正直に垂れ下がっていた。申し訳ない気持ちと、思い出せないもどかしさが、一晩中僕を悩ませた。
「明日も明後日も一年後でも、って言われてもなぁ……まったく参っちゃうよ」
「……ダメです!」
再び、リラが立ち上がった。今度こそ、椅子が大きな音を立てて後ろに倒れる。その衝撃で、棚の上に置いてあった小物がいくつか転がった。
それを気にもとめず、リラは僕の机の前まで詰め寄ってくる。
「ん?」
「ユキト様……今晩、お屋敷にお邪魔してもよろしいでしょうかっ!」
その瞳には妙な決意が宿っていた。拳を握りしめ、真剣な表情でこちらを見据えている。
「い、いいけど、どうしたの?」
予想外の申し出に、僕は面食らってしまう。彼女が僕の屋敷に来たいと言い出すなんて、初めてのことだ。
「私……がんばりますから!!」
何をがんばるのだろう。リラから、熱意という名の炎が燃え盛っているのを感じ取れた。
彼女は、なにかがんばるらしいが、なんのことかさっぱりわからない。
小鳥たちが平和そうに歌う声が、窓の向こうから聞こえてくる。なんだか、世の中の流れに置いてけぼりにされているような気がした。




