第34話 ヴェルナさんの、噂をしていた。
夕方の執務室には、羽根ペンが紙を走る音だけが響いていた。窓から差し込み始めた西日が書類の山を橙色に染めている。
書き終えた最後の一枚をその山の上に積んだ。
「よし、次の仕事は……?」
「ええと、今ので来月に必要な分の書類までほとんど終わっちゃいましたけど」
手元の書類がなくなったので、僕は副官のリラに声をかけた。
リラが、困ったような顔で返事をする。
「ぐっ、しょうがない。訓練場にでも行こうかな……」
仕事がなくなってしまった。これは困った。とても困った。
「ユキト様」
ガルムが、不思議そうな顔で口を挟んできた。
「三日前からオレらを先に帰して、ずっと残業してますけど、何かあったんですか?」
「今日は、おうちに帰りたくないの……」
僕は机に突っ伏しながら応じる。
「うーわー、気になる女の子に言われたい文句ですが、それ。本当にどうしたんです?」
「……師匠がうちに来てるんだけど、聞いてないのか?」
おや? 顔を上げて、ガルムを見た。
「げっ、鬼婆がっ!?」
ガルムの顔色が、一気に青くなった。
あちゃー、これは失敗したな。
「うわ、本気で申し訳ありません!」
「知ってると思ってたんだけど、もしかして初耳か?」
「そりゃあ、もちろんじゃないですか! もし、それを知ったら即日にユキト様のお屋敷へ挨拶に行きますよ! 逆になんで教えてくれなかったんですっ!?」
ガルムが、声を荒らげた。彼にしては珍しく本気で焦っているようだ。
「こっちだって、知ってるから何も言ってこないのかと思ってたんだよ」
「うわー、じゃあ今日はこれから酒場で土産を買って、ユキト様のお屋敷に……」
「ああ、酒を持ってくるなら明日の方が嬉しいねぇ」
いま一番聞きたくなかった声が、僕達の真横から聞こえてきた。
「!!??」
僕は勢いよく振り返った。執務室の入り口に、白い髪の老女が立っている。
なぜ、よりによって今日、このタイミングなのか。
「出たぁっ!!」
ガルムが叫んだ。
「え、なんで王宮内に堂々と入っているんですか、お祖母様!?」
「ふふふ、権力を持った知り合いってのはいいもんだねぇ。紙っぺら一枚で出入りは自由さ」
師匠が、なんでもないことのように犯行を白状した。
……そんなんでいいのか王宮の警備っ!?
けどいいぞ、このまま、さっきの会話は聞こえていなかった可能性が出てきた。
「若い頃のアタシは、夜会の華と呼ばれるほどモテたんだから、当時のコネってやつかねぇ」
師匠が、遠い目をして答えた。
恐ろしい話だが、それは本当の話で、そのせいで王宮の何名かの要人は、彼女の紐付きなのだ。
「そ、それで、お祖母様はどんな御用で王宮までいらしたのでしょうか?」
がんばれ、ガルムくん! えらいぞ、ガルムくん!
震えそうになる声を気合で抑えて、質問しているガルムの勇姿を見守る。
「いやなに、久しぶりに王都の酒場で一杯といきたくてねぇ。可愛い孫と弟子をつき合わせようと考えたんだけど……」
師匠の目が、すっと細くなった。
「ところで、鬼婆ってのは……」
「もちろん、つき合わせて頂きます、師匠!」
「お祖母様! オレの行きつけの店ですが、お祖母様好みの葡萄酒を置いてまして!」
僕たちは慌てて師匠の言葉をさえぎった。最後まで言わせてなるものか。
ガルムも必死だ。必死過ぎて、汗が額に浮かんでいる。
「そうかいそうかい」
師匠が、満足げにうなずいた。そして、リラの方を向く。
「お嬢さん、悪いけどこのふたりを先に帰らせてもらうけど、いいかい?」
「は、はい……いってらっしゃいま……せ?」
僕とガルムは、我先にと執務室を後にした。
リラが、ぽかんとした表情で僕たちの背中を見送ってくれる。説明する余裕はなかった。彼女に後で何か埋め合わせをすることを、僕は心のメモに書き記した。




