第30話 お師匠様が、やって来ていた。
「ふぅ、まったく年は取りたくないもんだねぇ。王都に来るだけで億劫でしょうがない」
白い髪の老女が、リビングルームのソファに腰を下ろしながら言った。
ヴェルナ・アルテミシア。僕の魔術の師匠だ。体格こそは小柄だが、その姿勢はピンとしており、あなどれない威厳を受ける。手にした杖は、歴戦の風格があった。
「い、いえ、師匠はいつでもお若くてお元気です」
僕はカチコチに固まりながら答えた。背筋がシャンと伸びる。
「おやおや? いっぱしの世辞が言えるようになったもんだ」
師匠が、にやりと笑う。その笑顔が、昔の恐怖を呼び起こす。
「修行が辛くて涙流してた小僧が、師団長とは……時の流れは早過ぎるねぇ」
しみじみとした声だった。
フェリシアが、静かにお茶を運んできた。
「どうぞ、ミルクと砂糖はそちらの壷から好みでお入れください」
「ありがとう、いただくよ」
ミルクも砂糖も入れず、そのままカップを手に取り、一口飲んだ。
「……美味い。お前さん、いい腕してるねぇ」
「お褒めいただきありがとうございます」
フェリシアが軽く頭を下げる。
師匠に褒められるとは、さすがフェリシアさんだ。略してさすフェリ。
「それで、師匠は本日はどんな用があって?」
僕は恐る恐る訊いた。師匠が突然訪ねてくるなんて、何も理由がないはずがない。
「用がないなら、弟子の顔を見に来ちゃいけないってのかい?」
「そんなことはありません! 師匠でしたらいつでも歓迎します!」
慌てて否定する。機嫌を損ねたら、僕がどうなってしまうかわからない。
「そうかいそうかい、じゃあ、しばらくの間この家で厄介させてもらおうかい」
「うぇいっ……?」
変な声が出た。今、何をおっしゃりまして?
「ひさしぶりに王都まで出て来たんだ、しばらくこっちに居ようかと思ってねぇ」
「師匠のためでしたら、一流宿の部屋を押さえますけどっ!?」
決死の思いで代案を出す。師匠と同じ屋根の下でまた暮らすなんて……そんな……。
「宿代がもったいないじゃないかい、その分は夕食の酒代にしとくれ」
「そ、そうですか……?」
嫌な汗が背中を流れる。
「何を怯えてるんだい。そりゃあ昔はちょいと厳しく修行をつけてたけどねぇ」
ちょいと?
生死の境をさまよったのが何回かも覚えてないのに……あれ、僕って共用語に不自由だった?
「今は自主鍛錬してるんだろ? だったら、アタシがとやかく言うつもりはないよ」
「そ、そうですか……」
少しだけ、安心した。
「まぁ、どうしてもって言うなら老体に鞭を打って、宿代替わりに指導することも考えるけどねぇ」
「あは、あははは……」
「はい」とも「いいえ」とも言えず、乾いた笑いしか出てこない。指導。地獄。食事。地獄。ううっ……。
「それでアタシは泊まらせてもらっていいのかい?」
「よろこんで! 師匠でしたら、この家を我が家と思って、何日でもご宿泊ください!!」
断れるわけがなかった。
師匠には、とてつもないシゴキを受けたが、その御蔭で何度も命を救われている。その恩を考えたら、これくらいは当然だ。
……胃薬の在庫を確認しておこう。
「それじゃあ、十日ばかりお世話になろうかねぇ。お嬢ちゃん達もよろしく頼むよ」
師匠がフェリシアとミーナを見て、にっこりと笑った。
こうして、我が家の住人が、一時的に増えることになった。
……頭痛薬も用意しておこうかな。




