第3話 触っていい? と、フェリシアさんに聞いた。
僕はフェリシアの動きをじっと見つめていた。
午後の陽光がリビングルームに差し込み、空気中のホコリをきらきらと輝かせている。休日の穏やかな午後だ。窓の外では、庭の草花が風に揺れている。
彼女はリビングルームの掃除をしている。
棚の上を丁寧にふき、床を掃き、窓を磨く。その一連の動作に無駄がない。
手にしているのは、柔らかそうな布と、木製の柄がついた羽根箒だ。どちらも使い込まれたものだった。
棚の上に並んでいた本が、いつの間にか高さ順に整理されていた。ホコリを被っていた置物も、今では光を反射するほど磨き上げられている。
だが、僕が注目しているのは、その仕事ぶりではなく……
ピコピコ。
フェリシアの長い耳が、彼女の動きに合わせて揺れていた。
掃除をしている間、彼女は鼻歌を歌っている。
聞き覚えのない旋律だが、どこか懐かしさを感じさせる曲だ。エルフ族の歌だろうか。
その軽快なリズムに合わせて、耳が左右に小刻みに動く。
まるで独立した生き物のように、勝手にピコピコと揺れている。
可愛い。
率直にそう思った。普段は無表情で毒舌なフェリシアだが、こうして無防備に鼻歌を歌っている姿は、なんだか微笑ましい。
「……ご主人様、何か仰りたいことがあるのなら仰ってください」
フェリシアは振り返ることなくそう訊いてきた。鼻歌が止まり、耳の動きもピタリと止まる。
「え、いや、なんでもないよ」
「ウザッ」
「ぐはっ……」
僕は思わず胸を押さえて倒れた振りをする。
ソファに背中から沈み込む。眼には見えない言葉の刃が、確実に心臓を貫いたはずだ。
「その心に傷を負った演技もウザイですから、で、私の耳がどうかしましたか?」
そのメイド、倒れた相手にも一切の手加減なし!
フェリシアはようやく振り返り、無表情のまま僕を見た。手には羽根箒を持ったままだ。その目は、すべてを見透かしているかのように鋭い。
「気付かれてたっ!?」
「何を驚いてるんですか、ネットリした視線で見ていたくせに」
「ネットリって……」
確かに見ていたが、ネットリという表現はどうなのか。もっと穏やかな言い方があるだろうに。
「え、いや、ちょっと……ピコピコ動くのが可愛いなぁって」
だから、僕は正直に答えた。ためらうことなく、まっすぐに目を見つめて。ここで誤魔化しても、どうせ見抜かれるだろうし。
「!? ……えっと、恐れ入ります」
フェリシアは一瞬だけ動揺したような表情を見せた後、慌てたように頭を下げた。
その耳が、少しだけ下向きに垂れる。まるで照れているかのように。羽根箒を握る手に、わずかに力が入った。
初めて見る反応だった。いつも冷静沈着な彼女が、こんな風に動揺することもあるのか。
「その耳ってさ、自由に動かせるの?」
僕は、続けて興味本位で聞いてみた。せっかくの機会だ、エルフのことについて知りたい。
「人間族の方にはよく聞かれるのですが……そうですね、足の小指くらいの感覚で動かせます」
「へぇ~……」
足の小指。つまり、意識すれば動かせるが、普段は無意識に動いているということか。さっきの鼻歌のときも、きっと無意識だったのだろう。
僕の手が、ムズムズとうずいた。
彼女の耳に触ってみたい。どんな感触なのだろう。柔らかいのか、それとも意外と硬いのか。表面はすべすべしているのか、案外ザラザラしていたりするのか。
「質問は以上でしょうか?」
「あ、その、耳に触らせてもらっていい?」
だから、思い切って聞いてみる。聞かなければ、始まらない。
「耳を、ですか?」
フェリシアは少し考えるような、こちらの様子をうかがうような仕草をした。
羽根箒を棚に置いて、両手を前で組む。その目には、警戒とも好奇心とも取れる光が宿っている。
「ダメ?」
「ちなみにエルフ族の女性は、異性が耳に触ると子供ができます」
「えええっ!?」
「嘘です。ご主人様も子供がキャベツから生まれてくると信じる初心なネンネじゃあるまいし」
「華麗に騙されたっ!!」
またやられた。僕はこの数日で何度この手に引っかかっているのだろう。僕には学習能力がないのかもしれない。
「そんなに触りたいのですか?」
「え~と……」
正直に言えば触りたい。だが、それを改めて口に出すのは、実はなんだか気恥ずかしい。ご主人様としての威厳というか、なんというか。
「ちなみに、エルフ族は耳を弄られても安易に性的興奮はしません」
「そ、そうなの?」
「生まれつき耳の感覚が鋭敏なエルフもいますが、それは人間族の人も変わらないはずです」
「うっ」
「エルフは耳を弄るだけで簡単に気持ちよくなるというのは幻想です。『エルフメイドさん桃色事変』をやろうと思ったら、普通に深い愛情と信頼と、継続的な経験が必要です」
「ぐふっ……」
なぜそのタイトルを知っているのか。
僕の本棚にある隠し収納が見破られたのだろうか。そして、あの本を持っていることを知られてしまったのか。彼女が屋敷に来たその日のうちに隠したのに……めちゃくちゃ気まずい。
「ご主人様は、成人向け小説の読みすぎです」
フェリシアは呆れたように言った。その声には、かすかな軽蔑が混じっている。
僕は何も言い返せなかった。
ただ、午後の日差しだけが、変わらず部屋を照らしていた。窓の外で、小鳥が二羽、まるでカップルのように仲むつまじく遊んでいるのが見えた。




