第2話 朝起きたら、フェリシアさんがいた。
「朝です。起きてください、ご主人様」
静かだが、確固たる意志を感じる声が耳元でささやかれる。眠りの深い底から、強制的に引っ張り上げられるような感覚。
「んーあー……」
僕は寝返りを打って、布団に顔を埋める。
まだ眠い。あと五分……いや、十分は寝ていたい。昨日は遅くまで本を読んでたのだ。身体は重く、まぶたは強く閉ざされていた。
毛布の柔らかさが心地いい。これは去年の冬に奮発して買ったもので、僕のささやかなぜいたくだった。
「朝です。起きてください、ご主人様」
「…………もうちょっと、寝かせて」
同じ言葉が、同じ抑揚で繰り返される。まるで時計の振り子のように正確だ。
もう一度寝返りを打った。布団の中は温かくて心地いい。
窓の隙間から差し込む朝日が、まぶたの裏をうっすらと明るくしている。このまま昼まで寝ていたい。今日の出仕は、遅くても問題ないはずだ。
「朝です。起きてください、ご主人様、スリー」
ん? 今、なんて言った?
何か聞き慣れない言葉が混じっていた気がする。気のせいだろうか。
「………………」
僕は布団の中で固まった。嫌な予感がする。背筋を冷たいものが這い上がっていく感覚。長年の経験が、危険を告げていた。
「朝です。起きてください、ご主人様、ツー」
これは……このまま無視を決め込めば、何か恐ろしいことになる気がする。
いや、確実に危険が危ないだ。これはあれだ。覚醒しつつある頭の中で、本能が警告を発した。
「朝です。起きてください、ご主人様、ワ……」
「……待ったぁ!! なんで、朝の挨拶に"減数詠唱"が混じってるの!?」
僕は飛び起きて叫んだ。
心臓がドキドキとしている。それは恋愛感情とか甘酸っぱいものではなくて、恐怖が原因だ。
寝癖だらけの髪が、あちこちに跳ねているだろうけど、気にしない。
フェリシアは僕のベッドの脇に立ち、相変わらず無表情で僕を見下ろしていた。
朝の光が窓から差し込み、彼女の銀髪を柔らかく照らしている。いつものように完璧にメイド服に身を包み、髪も綺麗に整えられていた。見事だ。
その手には杖こそ持っていないが、指先にわずかな魔力の光が宿っているのがわかる。淡い青白い光だ。もう一瞬で、何かが発動するところだった。
「ちっ…………ご主人様、これは攻性魔術の詠唱などではなく、ただの『メイド式起床法』です」
「舌打ちされたっ!?」
明らかに今、舌打ちをした。短く、小さいけど、確実に。今、攻性魔術って、言った?
「朝です。起きてください、ご主人様」
何事もなかったかのように、フェリシアは同じ言葉を繰り返した。
その無表情の奥に、どこか楽しんでいるような気配を感じるのは気のせいだと思うことにする。
「あー、もー、なんかどこからどうツッコんでいいやら……とりあえず起きるよ」
「お召し物はこちらにご用意しましたので、着替えたら食堂にいらしてください」
僕はあきらめて布団から出た。朝の空気が冷たく、肌を刺す。
窓の外では、庭の木々が朝露に濡れて輝いていた。小鳥たちが朝の歌を歌っている。
けどまぁ……いいなぁ、和むというか……
起き上がり、僕はぼんやりと考える。
確かに彼女の起こし方は独特だし、毒舌めいたところもある。
でも、こうして毎朝声をかけてくれる人がいるというのは、悪くない。
ひとり暮らしが長かったせいか、誰かがいるという安心感が、想像以上に心地よかった。
なんていうか、そう、生活に潤いがある……
僕は用意された服に手を伸ばす。
木製のハンガーにかけられた服は、きちんとシワを伸ばされ、今日の気候に合わせて選ばれている。
雨が降りそうな肌寒い日には厚手のものが、暖かい日には薄手のものが置かれているのだ。
取れかけていたコートのボタンもすべて確認されて、きちんと付け直されていた。そこにメイドさんの細やかなプロ意識を感じる。
「本日の朝食は、とりあえずパンとスープ、サラダを用意しました。卵の方は目玉焼きにしようと思いますが、焼き方はいかがなさいますか?」
着替え始めると、横からフェリシアの声が聞こえてくる。
「じゃあ、片面焼きの半熟で」
僕は服を脱ぎながら答えた。食事についても、その日の僕の気分を聞いてくれる。こういう何気ないやり取りも良い。
「かしこまりました……ところでご主人様、一言よろしいでしょうか?」
「ん、なに?」
「妙齢のレディの前で服を脱ぐのはどうかと思います。意外と逞しいのですね」
「!?!?」
僕は慌てて上着で身体を隠した。顔が熱い。振り返ると、フェリシアが扉のそばに立ち、こちらを見ていた。
いや、待て、これは別に恥ずかしがることじゃない。ただの着替えだ。自分の部屋で着替えているだけだ。
「おや、照れてらっしゃるのですか?」
「突然妙なことを言われたから、驚いただけだ!!」
「では、そういうことにしておきましょう」
フェリシアの声には、ほんのわずかだが、嬉しそうな響きがあった。無表情の奥で、彼女は確実に面白がっている。
「ううっ…………」
僕は素早く着替えを済ませ、部屋を出て食堂へ向かおうとして、声をかけられた。
「ああ、申し忘れておりました。おはようございます、ご主人様」
「……うん、おはよう」
僕は小さく答える。なんだかんだで、やっぱり悪くない朝だと思った。
廊下の窓から差し込む朝日が、磨き上げられた床を明るく照らしている。以前はどこかくすんでいた廊下が、今はキラキラと輝いて見えた。




