第13話 帰ってきたら、余計疲れていた。
「ただいまー」
十日ぶりに、我が家の玄関をくぐった。
西の所領での任務は、無事に完了している。悪徳領主は逮捕され、不正の証拠も押収できた。後は、王都での沙汰を待つばかりだ。
長い出張だった。自分の家に帰ってきたという安らぎが、身体全身に広がっていく。使い慣れた玄関の扉を開ける瞬間は、どんな高級宿より心地いいものがある。
「…………」
玄関で出迎えてくれたフェリシアは、なぜか無言だった。
いつもなら、「お帰りなさいませ、ご主人様」と声をかけてくれるはずなのに。彼女は僕の顔をじっと見つめたまま、口を開こうとしない。
僕は首をかしげた。なにかあったのだろうか。留守中に問題でも起きたのか、それとも体調でも悪いのか。
「ん? どうしたの?」
声をかけてみると、フェリシアは心底不思議そうな顔をした。長い耳がぴくりと動く。
「申し訳ありません、どちら様でしょうか?」
予想外の返事だった。
その無表情は、いつもと変わらない。エルフ特有の端正な顔立ちに、感情の読めない緑色の瞳。しかし、言っている内容が明らかにおかしい。
「えええっ!? いやいや、僕だよ!」
僕は慌てて自分を指差した。十日離れていただけで忘れられるとは思えない。いや、そもそもエルフの記憶力は人間より優れているはずだ。
「なるほど、僕様でいらっしゃいますか」
フェリシアは真顔でうなずいた。その動作には一切のためらいがない。
「僕様って!? 名前はユキトだけど!!」
声が裏返る。なぜ自分の家で自分の名前を訴えなければならないのか。
「それは申し訳ありません、ユキ・トダケード様」
微動だにしない表情。なめらかな発音で、存在しない名前を告げられた。
微妙に人名っぽく聞こえるところが悔しい。
「微妙に名前っぽいけどね! 違うからね! 何これ、新しいイジメっ!?」
僕は玄関先で叫んだ。十日ぶりに帰ってきた主人に対する仕打ちがこれか。旅の疲れが何倍にもなって押し寄せてくる気分だ。
「はい。十日かけて練りに練ってみました」
悪びれる様子もなく答える。いつもの無表情だが、その声にはどこか満足げな響きがあった。
「認めたしっ!!」
やはり確信的犯行だった。十日間、僕が留守の間に、せっせとこのネタを仕込んでいたということか。その労力を他のことに使ってほしい。
「さて、感動の再会も済ませましたし、お帰りなさいませ、ご主人様」
何事もなかったかのように、フェリシアが頭を下げた。いつも通りの洗練された挨拶に、まるで先ほどのやり取りが幻だったかのようだ。
「いやもう、疲れたよ……」
僕は肩を落とす。なんかもう、無駄に精神的疲労に襲われた気分だ。玄関で脱力するのは初めてかもしれない。いや、この間もあったな。
「出張お疲れ様です。さっさと中に入って休まれたらいかがでしょう?」
フェリシアは僕の外套を受け取りながら言った。その手つきは丁寧で、メイドとしての仕事ぶりには何の問題もない。そして、口調には微妙に問題がある。
「さりげなく出張のせいにしてるけど、とどめはフェリシアだからね?」
僕は抗議の声を上げる。しかし、フェリシアは涼しい顔だ。
「私の半分は愛で出来ております。人生に疲れたご主人様にとどめを刺すのも愛ゆえに」
「そんな痛い愛はいらないし!! まだ人生を悲観するほど生きてもないから!!」
何が愛だ。あれは完全にサド心ゆえだろう。彼女の辞書では「愛」と「からかい」が同義語になっているのか?
「ああ、ご主人様が帰ってきたんだな…………と、悦びに浸る私」
フェリシアがわずかに目を細めた。それは、笑顔と呼べるかどうか微妙な表情。普段の無表情からすれば、これでも十分に感情が出ている方だ。
「ああ、帰ってきたんだなぁ、と心から打ちひしがれているよ、僕は……」
僕は深いため息をつく。しかし、不思議と嫌な気分ではなかった。
こんなやり取りができることが、なんだか嬉しいような気もする。出張先では、こういう軽口を叩ける相手もいなかったしね。任務中だから仕方ないけど。
「出張はとても大変だったのですね。心が落ち着く香りのお茶を淹れましょう」
声がほんの少しだけ柔らかくなった気がした。彼女なりの労いの現れなのかもしれない。
「もぉいいけど。ところで、留守中に何かあった?」
念のため訊いた。十日も留守にしていたのだ。何か変わったことがあってもおかしくない。屋敷の様子は、見た限りでは異常はなさそうだが。
「変わったことですね。特には……」
フェリシアは、どこか考えるように間を置いた。長い耳が、かすかに揺れている。
「そ、ならいいんだけど……」
「あっ」
「……何かあった?」
嫌な予感がする。このメイドの「あっ」には、大抵ろくなことが続かない。
「そういえば、盛りのついた犬が迷い込んできましたが……」
盛りのついた犬。なんだか嫌な予感がする。フェリシアは比喩表現を使うとき、大抵何かを隠している。
「……それで?」
「そのまま追い払いました」
フェリシアは無表情のまま答えた。その声には、少しだけ冷たい響きがある。
「それだけ?」
「それだけです」
簡潔すぎる返答だった。
盛りのついた犬、か。なぜか、金色の髪の悪友の顔が思い浮かんだ。
が、僕はリビングルームへ向かう。帰ってきたばかりで、余計なことを考える心の余裕がない。
廊下を歩きながら、ふと窓の外を見た。庭の木々は十日前と変わらず、穏やかに風に揺れている。
やはり、我が家が一番落ち着く。
そう思いながら、僕はリビングルームの扉を開けて入る。
ソファに座り、フェリシアが淹れてくれるお茶が届くのを楽しみに待つことにした。




