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第六話「存在しないトラウマ」

 学院全体が静まり返る深夜。

 リリアナは寮の自室で、念入りに扉と窓の施錠を確認してからベッドの上に座る。そして、静かに深呼吸をし魔力を研ぎ澄ますと、古めかしい手鏡にそれを注ぎ込んだ。


 それはただの鏡ではなく、魔道具である。鏡はリリアナの魔力を受け、青白い燐光を放った。――やがてその奥から、女の姿が浮かび上がる。漆のように艶やかな黒髪、太陽を知らない白い肌、そして、夜族の特徴である尖った耳。


『進展はどうですか? さぞ良い報告が聞けるのでしょうね。あなたがソルヴィアへ行き、もう半月以上も経つのですから』

 鏡の中からリリアナを冷たく見据える女。夜王の眷属であるカーラだ。穢れた半夜族でありながら城に居座り、そればかりか王に重要な役目を一任されたリリアナを、カーラは憎く思っている。長いまつ毛の下には、どす黒い嫉妬が渦を巻いていた。


 リリアナは声を潜め答える。


『はい、順調です。王子は魔眼に魅了され、こちらを疑う様子もありません。しかし太陽神の加護は想定以上でした。理性を完全に陥落させるには、相応の時間が必要でしょう』

 リリアナは夜族と対話する時、相手に侮られないよう、毅然とした態度を心がけていた。それで反感を買ったとしても、弱者として虐げられるよりよほどマシだからだ。


『あらあら、無能な自分への言い訳ですか?』

『事実を報告しているだけです』

 少しの揺れもないリリアナの返答に、カーラは眉を寄せ何かを言いかけたが――彼女の背後から、低い男の声がそれを遮った。


『カーラ、あまり虐めてはいけないよ。……久しぶりだね、“モドキちゃん”』

『……アビス殿下、ご機嫌よう』

『何だかよそよそしいなあ。もっと気楽に接してくれて構わないのに。ねえ?』


 鏡越しでも耳元を這う、甘く湿った声。闇より深い黒髪。赤く光る瞳は獲物を狙う蛇のように、静かな凶暴性を孕んでいる。


 半夜族のリリアナを“モドキちゃん”と呼ぶのは、夜王の純血の嫡子、アビス。享楽主義で好き勝手に生きる彼は、いつも夜王の手を焼かせていた。どこの王族にも一人くらい、放蕩者がいるものなのかもしれない。


 アビスは、この世の悪を凝縮したみたいな男である。残虐な性格で、異種族にも同族にも容赦が無い。捕らえた陽族同士を殺し合わせたり、夜族に対しても、気に入らなければ平然と理不尽な罰を与えたり、魔術の実験台として弄ぶことさえあった。アビスにとって、自分以外の全てはただの玩具に過ぎないのだ。


 リリアナにとって彼は、夜王より関わり合いたくない相手である。だが、アビスは昔からリリアナによく構う。彼の数々の悪行をリリアナが知っているのは、アビスがリリアナの反応を楽しむために、わざわざ見せつけてくるからだった。

 半夜族、そして魔眼持ちという珍しい存在故に、彼の興味を引いてしまったのだろう。


 隙を見せたら壊される。

 それを知っているリリアナは、アビスの前では特に感情を露わにしないよう細心の注意を払っていた。


『そっちの生活はどうだい? 半分陽族のモドキちゃんには快適かな?』

『特に問題はございません』

『まあ! アビス様に向かって、なんて生意気な口の利き方!』

(……言いがかりだ)


 憤慨するカーラを無視して、アビスはにっこりと笑う。


『はは、相変わらずつまらない子だね』

 だったら構うな、とリリアナは思った。つまらないものが許せないから、面白くしようとしているのだろうか? 

 カーラは媚びた笑みを浮かべ、わざとらしくアビスの腕に擦り寄る。


『この紛い物に、アビス様を楽しませることなんてできませんわ。私でしたら、きっとアビス様を満たして差し上げられます……』

『はは。ねえ、モドキちゃん。俺が退屈な子を嫌うように、我が父は役立たずを嫌うということ、忘れないようにね?』


 アビスの言葉に、リリアナは体が芯から冷えていくのを感じた。


 リリアナが自分の有用性を証明できなければ、人質である母もまた無意味となる。リリアナがヘマでもすれば、母はたちまち短気な独裁者の、憂さ晴らしの道具にされてしまうに違いない。


 何もリリアナは、夜王の最後の一手という訳ではないのだ。ただ一番、無駄な兵力を割かずに済む手段というだけ。リリアナが任務を達成できないと見なされた時には、すぐに次の手に切り替えられるだろう。

 アビスとカーラがリリアナのお目付け役となっているのは、彼らがそれを担っているからかもしれない。二人のような高位の夜族なら、ソルヴィアに潜入し王族に接近することも不可能ではないだろう。


『分かっております。ですが、慎重さを欠いてはなりません。陽族に悟られれば、二度と同じ手は使えないですから』

『慎重って言うけどさ、モドキちゃんが言う“相応の時間”っていうのはどのくらいなんだい?』

『それは、』


 リリアナとて、ただ無策に機を窺っている訳ではなかった。

 あと二月もすれば、この国は太陽神ソルディウスの力が最も弱まる冬季を迎える。その期間は王族を守る加護や結界も弱まる上、長期休暇で学院を出る者も多く警備に隙が生じやすい。

 その時がアルクを連れ去る好機である。


『冬までには、必ず王子の心を手に入れてみせます』

『……ま、慎重と悠長をはき違えないようにね。進展があればまた連絡を』

 

 アビスの言葉を最後に、鏡の中から二人の姿は消え、暗い室内と暗い顔の少女だけが残った。


 リリアナは手鏡を、鍵付きの引き出しの奥にしまいこむ。そして替わりに、薄汚れた布に包まれた何かを取り出した。そっと包みを開くと、中には折りたたまれた紙の束。これまで母から送られてきた手紙だ。

 陽族に見つかればリリアナの素性を疑われかねない物だが、それでもこれだけは置いてくることができなかった。


 リリアナは母の優しい筆跡を指でなぞる。


 紛い物。夜族モドキ。偽物の男爵令嬢。

 誰も知らない本当の自分は、この愛の元にのみ存在している。




 *




 透き通る朝陽に照らされ、リリアナは眠い目をこすりながら、寮から食堂までの外廊下を歩いていた。


 アビス達への報告から三日、リリアナとアルクの関係に大きな進展はない。しかし着実に小さな進展を積み重ねてはいる。


 アルクのお気に入りの花園を見つけたあの日から、二人は放課後、中庭ではなく花園で過ごすようになった。そこには野次馬の姿も彼の婚約者の影もない。従者のサイラスは傍にいるが空気のようなものである。

 誰にも邪魔されないその場所で、二人の心の距離は少しずつ縮まっていった。


(……と思っているけど、体の距離は相変わらずだ。普通、彼くらいの年齢の男は、女に対してもっと貪欲であるものではないだろうか?)

 セシルのように、とまではいかないにしても。


(わたしに魅力が欠如しているのかもしれない。確か、陽族には“色気より食い気”という言葉があったな)

 食堂の方から香る焼きたてのパンの香りに、リリアナの脳内は既に支配されつつある。今日はバターロールをいくつ食べようかと考えていた時、


 平穏な朝を切り裂く悲鳴が響き渡った。


「きゃあああ!」

「魔獣、魔獣だ! 魔獣が出た!」


 生徒達の叫び。リリアナは反射的にその方向に身構える。


 外廊下に面した庭。ダン、ダン、と地面を踏み鳴らす重い音。そこに居たのは、太陽の下に相応しくない――異形の巨体だった。


 首から上は馬に似ている。しかし体は獅子のようで、皮膚は黒くひび割れていた。足には蹄ではなく、鋭い爪。目は血走り、瞳孔は縦に裂け、大きな牙が口からはみ出している。全身から溢れ出るのは――“魔力”。魔力を持つ獣を、魔獣と呼ぶ。

 

(何故、魔獣がここに……)

 魔獣は、種族差や個体差はあるものの、夜族同様に太陽が弱点だ。故にソルヴィア王国には殆ど存在しないとされている。辺境の地では人里まで下りてくることもあると聞くが、ここは王都。それも、結界が厳重な学院敷地内。


 こんなところに魔獣が現れるなんて、普通ではありえない。

 リリアナは、まだ自分はベッドの中なのではないかと思った。しかし逃げ惑う生徒達にぶつかられた時の衝撃が、現実だと知らしめる。


 魔獣は完全に理性を失い暴れ回っていた。恐らく太陽光に苦しみを感じているのだろう。


 生徒達は我先にとその場を離れ、学院内へ駆け込んでいく。ドゥラザークでの訓練で、何度か魔獣狩りをさせられたリリアナにとっては、魔獣は恐れを抱く対象ではないが……男爵令嬢リリアナ・ローレンスとしては、別だ。


 リリアナもまた、皆の流れに混ざろうとした。その時ふと、一人だけ逃げ遅れた女生徒が目に付く。腰が抜けたのか立ち上がることもできず、迫る獣に怯えきっていた。


(……関わらない方がいい)

 それが正しい判断だ。

 ここでもし自分が目立てば、正体を疑われるきっかけになりかねない。リリアナにはそんなことは分かり切っていた。


 しかし、夜色の獣がギラギラ光る目で女生徒を見下ろし、黄ばんだ爪を振り上げた時――リリアナの脳裏に、何かが走る。白く、黒く、赤い、稲妻のような、痛み。



 風のうるさい夜。

 呻きを上げる巨大な影。

 途切れた悲鳴。

 赤の滴る白い肌。


 何も出来なかった、無力な子供の手。



(――違う。違う、違う、ちがう)


 そんな光景なんて、知らない。



 だがリリアナはその小さな手に自分を重ね、気付けば女生徒の元へと走り出していた。



「……伏せて!」

 リリアナは女生徒に飛びつき、地面に押し倒す。魔獣の爪がリリアナの背を掠り、制服と肌を裂いた。邪魔をされた魔獣は怒り、飛びかかろうと身を低くする。


 リリアナは女生徒を抱え、その場から逃げようと――


「そこまでだ」


 ひやり、と冷たい声が響く。


 リリアナが振り返ると、魔獣の向こうには剣を構えたアルクが立っていた。その隣には彼の婚約者エレナ・アステリアが寄り添い、その手に陽力の光を集めている。


「お前の相手はこちらだ!」

 アルクが駆け出した。エレナが素早く“祝詞”を唱え、空間に聖なる力が満ちる。


 ……それからは、あっという間だった。

 エレナの結界が魔獣を抑え、アルクの鋭い一閃が獣を屠った。魔獣は断末魔を響かせ、力無く地面に落ちる。


 リリアナは息を詰めながらそれを見ていた。


「あ、あの、ああ、あ」

 リリアナの下で、女生徒が泣きながら言葉にならない声を上げる。泣いている少女を相手にしたことのないリリアナは、気まずそうに彼女の上から退いた。


「押し倒してごめんなさい。怪我は?」

「怪我をしているのは君の方だろう」

 剣を収めたアルクがリリアナ達に近付いて来る。リリアナは彼の手元の鞘に気を取られた。陽力を込め魔を祓う聖剣、そして辺りに充満するユリアの陽力に、リリアナの中の半分の血が恐れを抱く。


 リリアナは動揺を隠し、俯いた。

 

「は……あ、確かに」

「わあああっ! ご、ごめ、ごめんなさい! すぐに医務室に!」

 女生徒が慌てた様子で、リリアナを学舎内に引っ張っていく。今の今まで腰が抜けているように見えたのに、陽族の少女というのも中々強かなものだな、とリリアナは感心した。


 されるがままになりながら、リリアナは一度だけアルクの方を見る。

 アルクもまたリリアナを見ていた。しかしその目はいつもとは違う。迷っているような、困っているような、小さな揺らめきがあった。




 アルクは遠ざかるリリアナの背を見つめ続ける。

 エレナはそれに気付いていないふりをして、明るい声でアルクに話しかけた。


「アルク様、流石の剣さばきですね」

「……エレナ、君の結界も見事だった」

 アルクの称賛にエレナは頬を染める。けれどアルクのどこか上の空な様子に、不安が胸をよぎった。


 それからすぐに学院の警備兵が駆け付け、状況確認が始まる。慌ただしさの中で、エレナにはアルクの心情を確かめる暇はなかった。

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