第五話「王子の花園」
午前と午後の授業の合間、昼食時。リリアナは人の滅多に来ない階段で、大きなサンドウィッチに齧りつく。アルクと共に過ごすようになってから、食堂での視線が以前よりきつくなり、最近は手に取れる食事だけ持って他所で食べるようにしていた。
一つ、二つ……三つ目のサンドウィッチを腹に収めても、まだ空腹感がある。アルクに魔眼を使い続けていることで、魔力の消費が激しいのだ。
本当であれば弟のセシルにも保険をかけておきたいところだが、そこまでの余力は無い。それにセシルは小言を言われたくないのか、アルクを避けている。そのせいで、アルクの傍に居るリリアナはセシルに接近しにくくなってしまった。
(……さて、どうするか)
四つ目に手を付けながら、リリアナはアルクの攻略法を考える。
アルクに接触を開始してから五日。まだ五日だが、もう五日だ。効果的な攻略法が見つけられなければ、時間だけが過ぎていってしまう。
どうすれば、彼の心を支配できる? 彼の望んでいるものが分かれば、心を揺さぶることが出来るかもしれないが、アルクはどこまでも無欲な男に見えた。
彼の理想の女性像に近付いてみる、というのも難しいだろう。彼が本当の愛を向けるエレナのような溢れる気品、それでいて女でさえもハッとする色気を身につけることは不可能だと、リリアナは理解していた。そもそもの作りから違うのだ。同じ土俵で戦って勝ち目があるとは思えない。
(結局、エレナ・アステリアの存在が、彼の理性を保っているのかもしれないな)
リリアナは、アルクのエレナに対する感情を嫌悪にすり替えようと、洗脳を試みたことがあった。しかしアルクの態度は何も変わらなかった。それだけエレナへの想いが根強いということである。
――その時、リリアナの頭の中が、現実に反映された。
リリアナの敏い耳に、聞き慣れた声と、鈴の鳴るような美しい声が聞こえてくる。リリアナは階段の踊り場まで上がって、窓から少しだけ顔を出し、そっと下を見た。
中庭の噴水の近くで、見目麗しい男女が談笑している。アルクとエレナだ。昼食を共にした後なのかもしれない。周囲の生徒達は二人に見惚れていた。
完成された絵画みたいな光景に、リリアナは虚しさを覚える。
そっと腰を下ろし、影の中に戻った。
*
放課後になり、リリアナはアルクと待ち合わせをしている中庭に向かう。
その場に辿り着くと、楽しげな生徒達の話し声がピタリと止んだ。集まる視線、淀んだ空気。リリアナは鈍感を装い、ベンチに腰掛ける。アルクはまだ来ていない。
サラサラと涼やかな音を立てる木々。陽光を受け輝く噴水の飛沫。リリアナは、居心地の悪さを覚えた。
昼間にはアルクとエレナのものだったこの場所。そこを侵しているというのは、気分が良いものではない。
「ねえ、あなた」
知らない声にリリアナが顔を上げると、そこにはやはり見知らぬ三人の女生徒が立っていた。
「わたしに、なにか?」
「ええ。自分では気付かないみたいだから、忠告してあげようと思って」
女生徒達の目に宿る、冷たい侮蔑の色。リリアナは彼女達の言いたいことを瞬時に察した。この忠告は何も初めて受けるものではない。
「リリアナさん、あなたの行動は目に余り過ぎだわ。婚約者のいらっしゃる殿方に近付くことが、いかに不道徳であるか、分からないのかしら?」
「アルク殿下は、孤立しているあなたに同情しているだけよ。あなたが特別ということではないの。優しいあの方に、あなたは迷惑をかけているのよ」
ぺらぺらぺら。紅の引かれた緩い唇が、溜められた言葉を一気に吐き出していく。早口で淀みなく連ねられる言葉に、リリアナは頭が窮屈になった。
(陽族の女はよく喋るな……)
「あなたは、アルク殿下がどなたとご婚約されているか、知っているわよね? エレナ様こそ、アルク殿下に相応しいお方。あなたみたいなのがアルク殿下の隣にいるなんて、無礼を通り越して滑稽よ。身の程を弁えなさい!」
中心に立つ女生徒が、何も言い返さないリリアナに勝ち誇った笑みを浮かべる。
リリアナは早くこの場所を立ち去ろうと思った。
このまま虐げられていれば、アルクがやってきて自分を庇うかもしれない。しかしそれで、周囲の注目や敵意が増すなら得策ではない。
しおらしいローレンス嬢らしく、顔を伏せてその場を走り去った。
*
(別に、わたしだって好きで一緒に居る訳じゃない)
行くあてもなく学舎裏を歩きながら、リリアナは心の中で自分勝手な悪態をつく。
……大体、エレナ・アステリアが文句を言ってくるなら理解ができるが、何故第三者が口を挟んでくるのか。滑稽だとか、身の程知らずだとか、何の事情も知らない彼女らの方こそよっぽどだ。あんな一般人など、自分が本気を出せばひとたまりも――。
(……ハッ。随分と夜族らしい考え方だな。どんなにらしくても、紛い物のくせに)
夜族でも陽族でもない、どちらにも馴染めない自分。
本当の自分を認め、愛してくれるのは、母だけ。
母だけが、自分の存在を証明してくれる。
リリアナは立ち止まり、深く息を吸って、吐く。少しだけ気持ちが乱れたのは環境の変化によるストレスの所為だ。それから、魔力の使い過ぎによる疲労。この任務、長引かせるのは危険である。多少強引にでも進めるべきかもしれない。
気を取り直し、中庭に戻ろうと踵を返した時。フワリと、どこからか甘い香りが風に運ばれてきた。リリアナはそれに、心がそよぐような不思議な感覚を覚える。
(なんの匂いだ?)
リリアナは敏感な嗅覚を頼りに、それを辿った。
今は使われていない旧講堂の裏手に回ると、そこは手入れがされておらず荒れ果てている。伸びきった草、生い茂る木々。その奥には隠されるように――白い鉄製の門がひっそりと佇んでいた。蔓で装飾されたそれは固く閉ざされて見えるが、鍵はかかっていない。手で押すと簡単に開いた。
……中から人の気配はしない。甘い香りはこの中からしている。
リリアナは静かに一歩を踏み出す。
緑のアーチをくぐり抜け、視界が開けた瞬間――思わず足を止めた。
目の前に広がるのは、まるでおとぎ話の絵本の中だ。白い石壁に囲まれたそこには、花の世界が広がっている。赤、白、黄色……リリアナが知っている色の種類ではとても表現しきれない、色とりどりの花々が、瑞々しく咲き誇り互いを引き立て合っていた。
風で花が囁くたび、甘く清々しい香りが広がる。
「……綺麗」
リリアナはその言葉の意味を、改めて知った。
リリアナがこれまで過ごしてきた常夜の地には、花は存在しない。ソルヴィア王国に来てからは、花自体は何度も目にしていたが、こんなにも沢山の花が生き生きと咲いているところを見るのは初めてだった。
リリアナは心に込み上げてくるものを感じ、暫くそのまま立ち尽くす。
花が好きだと言っていた母。あの温もりが、落ち着く匂いが、ここにはある気がした。
(お母さん……)
「こんなところで何をしているんだ?」
「うっ、わ」
花に気を取られていたリリアナは、背後からかけられた声に飛び上がった。振り返ると、そこにはこれから会いに行く予定だった人物の姿がある。
「アルク様、どうして、こちらに?」
「それは私の台詞だ。君が中庭に居ないから探していた。まさかこんな所にいるとはな」
「良い香りがしたので……入ってはいけない場所でしたか?」
「いや、そうではないが……」
歯切れの悪いアルク。表情も声もどこか硬い。リリアナがここにいることを、あまり良く思っていないようだ。リリアナは機嫌を窺いながら、甘えた声で擦り寄る。
「あの、ここは?」
「昔、学院の創立記念日に作られた花園だ」
「はなぞの……。こんなに綺麗なのに、どうして誰も居ないんですか?」
「生徒達は皆、中庭やカフェを備えた温室の方に集まっている。ここは学舎から離れているし、道中は手入れもされておらず虫が多かっただろう? だから人が来ないんだ。君も虫に刺される前に帰った方がいい」
アルクの返答に、リリアナは疑問を抱く。人が来ない忘れられた花園。なのに何故、この中だけは別世界みたいに美しいのか。
リリアナの疑問顔に応えたのは、アルクではなかった。
「ここはアルク様のお気に入りの場所なんですよ」
耳慣れない三人目の声。リリアナは目を丸くしてその男――アルクの従者、サイラス・アルベルトを見る。
長い灰色の髪を一つに結い、銀縁眼鏡をかけた、中性的な顔立ちの壮年の男。彼はいつも貼り付けたような笑みで、アルクから少し離れた場所に黙って立っているだけだったため、リリアナの中では背景の一部という認識になっていた。主が婚約者以外の女と毎日のように逢瀬を重ねていても、眉一つ顰めることのないただの背景。彼の声を聞くのは初めてだった。
突然喋り出したサイラスに、アルクも意外そうにしている。
「大変美しい花園でしょう? アルク様が、特別な庭師に管理させているんです。他の者に踏み荒らされたくないから、敢えて外はそのままなのですよ。誰も来ないように」
柔和な表情と声。しかしその言葉は棘を含んでいる。サイラスは、ここがアルクの神聖な不可侵領域であり、リリアナが踏み込むべき場所ではないと言っているのだ。
アルクにとっての、特別な場所。
リリアナはこれを、彼と距離を縮める好機だと捉えた。
「アルク様は、お花がお好きなんですね」
「ああ、まあ、そうだな」
「……きっとこの子達も、アルク様のことが好きだから、こんなに綺麗なんですね」
リリアナは花壇の傍にしゃがみ込み、花に顔を寄せて挨拶する。そんな彼女の無垢な様子に、アルクは何とも言えない顔をした。
「制服が汚れてしまうぞ」
「平気です。アルク様、お花っていっぱいあるんですね。色も香りも、全て違う」
「秋の花も美しいが、春にはもっと見応えがある。君も花が好きなのか?」
「はい、大好きです」
「そうか。……ご両親も花が好きなのか?」
「何故、ですか?」
「君の名前は、花を意味するものだろう」
アルクの言葉に、リリアナは目を見開く。
――『あなたの名前は、お母さんの大好きなお花からいただいたのよ』
母から贈られた本当の名前と、それに込められた想い。
この世界で唯一の、愛。
(何故、こいつがそれを知っている?)
大切な宝物を雑に扱われたみたいな不快感。リリアナはそれを隠しきれず、表情を失う。アルクはリリアナの反応に僅かに身を引いた。
「違ったか? 君の名前は、一般的には花の名前を意味するものだが……。ほら、あれだ」
アルクが指し示す方向には、凛と聳え立つ、気高く気品に満ちた花。純白の花弁は静謐な光を湛えている。
「“リリアナ”は百合の花を由来とする、伝統的な女性の名前だ。君のご両親は、あの花のように清らかに、美しく咲き続けて欲しいと願ったのだろう」
秋咲きの品種だから、今が見頃だ――とアルクが続けるのを聞きながら、リリアナは心の中で深い溜息を吐いた。
(なんだ、リリアナ“も”花の名前だったのか)
偽りのリリアナは、正体がバレていない事に安堵する。ほっと胸を撫でおろすと、小さな小骨でも引っかかったみたいに、チクリと痛んだ。
……名を奪われた、男爵令嬢リリアナ・ローレンス。彼女もまた花の名前を貰っていた。彼女がどういう人物か知りたいとも思わなかったが、名前から彼女に対する両親の愛情が見えてしまった。
リリアナの中に、気付かないふりをしていたかった罪悪感が顔を出す。同時に嫉妬が生まれた。リリアナ・ローレンスはきっと堂々と、あんなにも美しい花の名前で生きて、死んでいけたのだろう、と。
「君にぴったりの、素敵な名前だな」
アルクの言葉に、リリアナは責められている気持ちになった。目を伏せ「そうですね」と返す。そして、辛い時はいつも母の温もりに縋った。
「……お母さんにも、見せてあげたい」
思わず漏れ出たそれは、幼い頃に母を亡くしたリリアナ・ローレンスの言葉として何らおかしくはない。が、紛れもなく少女自身の言葉だ。
アルクは神妙な面持ちで彼女の横顔を見つめ、やがて小さな声で言った。
「私の母も、花が好きだった」
アルクの声色が、いつもと違う。彼の言葉もまた、思わず零れ落ちてしまったかのような響きだった。
リリアナはアルクの瞳を見つめて、次の言葉を待つ。しかしアルクはすっと立ち上がり、遠い目でどこかを見るばかり。その先が語られることは無かった。
「あの」
「なんだ?」
「わたし、また、ここに来てもいいですか?」
「……私に了承を得る必要はない。花が好きなら、いくらでも見に来ればいい」
アルクの回答に、サイラスが初めて笑みを止めた。
「ありがとうございます。アルク様」
リリアナは、いつもより容易く笑顔を浮かべることができた。
アルクのお気に入りの場所への立ち入りを許される、というのは、任務達成への大きな一歩に違いないのだから。
……と、そんな言い訳をしながらも、本当はただ嬉しかっただけだ。遠く離れた母を感じられる場所が、この学院にあったことが。そして、そこに居ても良いと言われたことが。
(この花の中に、わたしの名前の花もあるのだろうか。アルクに尋ねれば分かるかもしれないが、唐突すぎて不審に思われるかもしれないな。……時間があれば、図書室で調べてみるか)




