第四話「噂の二人」
サンクタ・ルミナ学院の広大な中庭には、白大理石で造られた大きな噴水が鎮座している。手入れの行き届いた芝が広がり、ベンチがいくつも設置されたそこは、生徒達の憩いの場だ。
その片隅に、誰もが思わず息を潜めてしまう二人の姿がある。
木陰のベンチに並んで腰掛ける男女――アルクとリリアナだ。
誠実で清廉な人物だと思われていた、第三王子アルク・ソルディウス。普段は一人で行動することの多い彼が、ここ三日ほどは度々、婚約者以外の少女と仲睦まじげにしていた。
その様子は友人の域を出なかったが、男女の二人組に対して周囲が勘ぐってしまうのは至極当然のこと。二人の様子は、生徒達の間では噂になっていた。
廊下の窓から二人を窺い、ひそひそと囁く女生徒達。彼女達はアルクの婚約者であるエレナ・アステリアがその場に現れると、心の内で嬉々とした。
名家の出で、聡明で美しく、誰からも羨まれるエレナ。遥か高みで全てを手にした彼女が、冴えない田舎娘を相手に嫉妬に狂う姿は、どれほど痛ましく愉快だろうと期待したのだ。
しかしエレナの表情は、どこまでも穏やかな淑女のまま。窓の外を一瞥だけすると、取り巻きを引き連れて優雅にその場を後にした。
「あ、あの、エレナ様……」
「そうね。今度のティーサロンは、あなたのおすすめの紅茶にしましょうか。天気が良ければ“中庭”で開催するのもいいわね」
エレナは何事もなかったように会話を続ける。
――あのような娘など、相手にする価値も無い。アルクは優しいから、入学して間もない病弱な女生徒を気遣っているだけ。彼の正式な婚約者は自分であり、心を乱す必要などない。
と、エレナは自らに言い聞かせる。上品な微笑の裏側で、腸を煮えくり返しながら。
*
心臓を握られるような、冷たく嫌な気配。
リリアナが学舎の方に目をやると、窓の奥にはこちらを好奇と軽蔑の目で見ている女生徒達が居た。しかしその中に、一瞬感じた気配は存在しない。
今のは一体何だったのだろう? とそちらを見続けるリリアナ。アルクがその視線の先を追うと、窓の向こうの人影はサッと引いた。
「……噂が気になるのか?」
「いえ、わたしはいいのですが……アルク様は大丈夫かなって」
「君がいいなら、私も問題ない。別に悪いことをしている訳じゃないだろう?」
アルクは窓から視線を外し、リリアナに微笑みかける。彼の空より青い瞳には一人の少女しか映っていない。
憐れだな、とリリアナは同情した。
リリアナがアルクの洗脳を開始してから三日。
彼はすっかり、リリアナに魅入られていた。
授業の合間や放課後にリリアナが会いに行けば、アルクは快く彼女を迎える。そして他の誰も寄せ付けず、リリアナと二人で過ごそうとした。
リリアナが当初危惧していた婚約者エレナの存在については、今のところ大きな問題にはなっていない。エレナは学業と聖女の役目、加えてティーサロンや学習会を自主開催するなど忙しくしており、リリアナに関わっていられる暇が無いからだ。
だが、だからと言って彼らの絆が弱まったという訳ではない。リリアナは昨日、彼らがまた食堂で朝食を共にしているところを目にした。二人の様子は、まるでリリアナなど存在しないとでもいうようなものだった。
洗脳によってアルクがリリアナに好意を持ったとしても、元々の愛は変わらないのだろう。エレナが口を出してこないのは、自信からくる余裕。そして、アルクに対する信頼の証だ。
しかし他の生徒達は見過ごしてはくれない。
リリアナはアルクを誑かす不埒な女として、一部の生徒から――特にエレナとアルクの信者からは、無視や嫌がらせを受けることもあった。
「リリアナ。下世話な噂話など放っておいて、私と話をしよう。私はもっと、君のことが知りたい」
(……うっ)
端正な顔に見つめられ、リリアナは思わず目を細めた。眩しい。太陽神の加護の所為だろうか。
「どうした、頭でも痛むのか?」
「いえ、大丈夫です」
「無理はしていないか? 君は重い病気だったんだろう? 本当に、もう体は大丈夫なのか?」
過剰な心配に、リリアナはローレンス嬢が病弱で外にも出られなかったことを思い出す。
なるべくか弱く見えるように上目遣いで瞳を潤ませ(た気にはなっているが、ただ力んでいるだけである)、胸の前で手を握り締めた。
「はい。きっと、神様に祈りが通じたんです。こうして学院に通えるなんて、夢みたい」
「そうか。私も君に会えて良かった。だが君が学院に通う事になって、ローレンス男爵はさぞ心配しただろうな」
「……そうですね」
リリアナの脳裏に、気の毒な男の姿が浮かんだ。男爵はあの屋敷で、まだ亡骸の世話を続けているのだろう。いつか夜族が娘を助けてくれると信じながら。
「君は、病気の間は何をして過ごしていたんだ?」
「……本を読んで過ごすことが多かったです」
「どんな本が好きなんだ?」
「ええと」
リリアナはいくつかの書名を挙げる。それらは、言語学習のために与えられていた陽族の本だ。有名な本だったのか「ああ、その本は私も好きだ」とアルクが頷く。
それからも、アルクはリリアナにポツポツと色々な質問を続けた。彼との会話はいつもこんな調子だ。アルクは傍から見ていると寡黙な印象だったが、案外そうでもないらしい。好意を寄せる相手のことは、とことん知りたいタイプなのかもしれない。
リリアナは彼の問いに、それらしい虚構で返していく。意味のない問答を繰り返していると、自分が別人に作り替えられていくような感覚に陥った。
「あの、アルク様のことも教えてください」
「私のことか? 聞いて楽しいことは何も無いぞ」
(確かにな)
アルクの話す彼自身の事といえば、想像の域を出ない真面目な学院生活や、一般生徒でも知っているような王城の様子ばかり。彼にはこれといった趣味も、苦手なものも無い。
悩み、願望――弱味を握ることが出来れば、彼の心を掌握しやすくなるのだが……。
リリアナは探るように、じっとアルクの瞳の奥を覗き込む。アルクは風に頬を撫でられたみたいに、ふっと目元を緩めた。
彼がリリアナに向けるその視線は、どこまでも好意的。しかし心は、まだ完全には落ちていない。
リリアナが密な接触を試みようとしても『男女の距離には節度がある』とやんわりあしらわれてしまう始末。とてもあの女遊びの激しいセシルの兄とは思えなかった。
魔眼の洗脳は、相手を意のままに操る術ではない。相手の認識を変えるだけ。例え相手にとって好ましい存在になったとしても、それに対する向き合い方には個人差が現れる。つまり彼自身があまりに……奥手だということだ。
リリアナは彼の節度を壊してしまうほどに、国や神を捨てて闇に身を堕とすほどに、熱く激しく愛されなければならない。
……目の前の男がそのようになる姿が、リリアナには少しも想像できなかった。




