第三十五話「アルク・ソルディウス(後)」
『ははうえ、きょうは“ふゆのしゅくさい”だそうです。おしろでは、たくさんのひとたちがおどったり、ごちそうをたべたりするのだそうです』
『セシルに聞いたのね? そうね、今日は私達もご馳走にしましょうか』
『あ……はい』
『……塔の外に、行きたいのね?』
『いえ、そんな』
『いいのよ。ここが狭く感じるのは、あなたが成長した証だもの。……もう少しだけ待ってね。今はまだここから出してあげられないけれど、あなたがもっと大きく立派になったら、きっと“あの方”が迎えに来て下さるわ』
“あの方”というのは、時折塔に訪れる壮年の男のことである。当時のアルクは、その男が国王であるということも、自身の父親だということも知らされていなかった。母の心を奪っていく憎い男でしかなかった。
『アルク。あなたはとても賢い子だから、きっと外でも上手くやっていけるわ』
『ははうえも、いっしょですよね?』
アルクの懇願に似た問いに、母は儚い笑みを返す。
『……あのねアルク。お母さん、あの方にお願いをしたの。あなたが行く場所に、ささやかでもいいから花園を作ってくれるようにって。アルクもお花が好きでしょう? 寂しくなったら、そこに行きなさい。お母さんはお花を通して、いつでもあなたを見守っているからね』
わがままを知らないアルクは、花では嫌だと言えなかった。母でなければ駄目だとは言えなかった。しかし母は全てを理解しているように、愛しい我が子を抱きしめて言う。
『お母さんもよ』
泣きたくなるくらい優しい声。
母の腕の中は、太陽なんかよりもずっと温かかった。
*
――カーテンの隙間から差し込む朝の気配。アルクは懐かしい夢から目を覚ます。
小さな塔が世界の全てだった幼い少年は、十八歳の精悍な青年へと成長していた。長い学院生活も今年で終わりである。アルクはまだ夜の香りが残る外に、日課の訓練へと出た。
「アルク様、たまには手合わせでもいかがですか? 素振りだけでは勘が鈍るでしょう」
「……条件を付ける。武器は互いに剣一本。それ以外は無しだ」
「おやおや」
サイラスは肩を竦める。
サイラスは徒手格闘にも秀でているが、十八番は別だ。以前手合わせをした際、想定外の隠し武器に翻弄されたことを、アルクは忘れはしない。朝からあんなものを相手にしていては一日に響く。
何よりアルクは、余計な小細工のない、真正面からの勝負を好んだ。実戦においては綺麗ごとだと馬鹿にされようとも。
交差する視線。
激しく打ち合う二人。
朝靄に汗が散る。
サイラスは明らかに手加減をしていた。その瞳に浮かぶ余裕と、生温い感情に、アルクは苛立ちを募らせる。
「アルク様、今の一撃は良かったですよ! 本当に強くなられましたね」
「その割には余裕そうだな。嫌味か?」
「まさか」
いつも数歩先を行く飄々とした男、サイラス・アルベルト。
数年前の彼との出会いが、アルクの運命を大きく変えたのだ。
『あなたは、世界平和に興味はありませんか?』
サイラスがアルクの従者となり間もない頃。二人きりになった時に、彼が唐突に放った言葉。アルクが嫌いだった貼り付けたような笑みは消え、その目には鋭い光が宿っていた。
『何の話だ?』
『言葉のままですよ。陽族と夜族の境のない、争いの無い世界。……お母様の意志を継ぐ気はないか、と言っているのです』
母。その存在がアルクの心を揺さぶる。それは他人が簡単に触れていいものではないのだ。
しかし何故か嫌悪感はなかった。サイラスからは、他の者のように母を侮蔑する意思は感じられない。
『お前は何者だ』
『お母様の昔馴染みですよ』
そして、サイラスは語る。自身がアルクの母と同じ村の出身であり、母の意志を継ぎ今は和平軍を率いているということを。
サイラスはアルクの存在を知り、時間(と少しの策)を重ね、王の信頼を勝ち得て従者の地位に就いた。和平軍“黎明の鷹”には、夜族と陽族を繋ぐ存在が必要不可欠である。二つの血を引くアルクを“二種族を繋ぐ平和の象徴”に据えることが、サイラスの目的だった。
アルクは一瞬だけ逡巡したものの、その手を取ることにする。王政を壊すという目的と自らの復讐が一致したからだ。それにアルク自身、戦争に疲弊した国には思うところがあった。
それから数年をかけて、黎明の鷹は準備を進めてきた。
――いよいよ今年の冬、成果を実らせる時が来る。
「おお、その調子ですよ! 最近、絶好調じゃないですか!」
「今が、大事な時だからな!」
サイラスの剣を弾き返すアルク。サイラスは額に滲んだ汗を手の甲で拭い、太陽を眩しそうに見上げると、剣を収めた。
「アルク様、そろそろ花園に水を撒く時間です。本日はエレナ様との朝食のお約束がありますから、急ぎましょう」
「……そうだな。行くぞ」
アルクは、もう少しでサイラスから一本取れたかもしれない、という悔しさを飲み込んだ。
訓練と同じく欠かせない、もう一つの日課。それが花の世話だ。
アルクが入学するよりずっと前に、匿名で寄贈されたその花園。アルクは入学して間もない頃、人のいない静かな場所を探し、そこに辿り着いた。
学舎から離れた場所にあり、周囲の手入れがされていないその場所に、滅多に人はやってこない。だが不思議と、アルクがそこを訪れるまで綺麗な状態に保たれていた。
見覚えのある構造や植えられている花を見て、アルクはすぐに思い当たる。
これは恐らく、母が王に願ったという花園だと。
何故約束を守ったのか、王に尋ねるつもりは無い。母を守ることのなかったあの男を許す気は無い。だが、アルクは母を感じさせるその花園を愛した。これは王ではなく、母からの贈り物なのだ。
(この花園に居られるのも、あと僅かだな)
水滴を受け、煌めく花々。
アルクは惜しむようにそれを眺めた。
*
「アルク様、おはようごさいます」
凛と鳴る声に、アルクは神経を尖らせる。それを悟られぬよう柔和な笑みを湛え、挨拶を返した。
「おはよう。エレナ」
エレナ・アステリア。美しく聡明で、気品あふれる淑女の鑑。老若男女、皆に慕われる聖女。アルクは彼女の自信に満ちたその顔が、苦手だった。
エレナとの婚約は、王妃が強引に取り決めたものである。
聖女であるエレナなら、万が一の時にアルクの魔力に対抗できる。何よりエレナは王妃に従順。王妃はその従順さを利用し、アルクを管理しようとしたのだ。アルクが他の女と結ばれないよう、決してその血を残さぬように。
二人には子を成さないことが命じられていたが、それを守りエレナが世間から何と言われようとも、王妃の知ったところではなかった。
事情を知る者の間では、王妃は自分より美しいエレナに嫉妬し、嫌がらせをしたかっただけなのではないかという噂がある。
また、エレナが家であまり良い扱いを受けていないことにも、アルクは気付いていた。
恐らく彼女は、アステリア家が王妃から見返りを得るために差し出された生贄。被害者だ。だから、そんな彼女には同情を抱かなくはない。
しかし、エレナから感じる押しつけがましい感情に、アルクは辟易としていた。
“あなたを愛してあげられるのは私だけ”
”私といることで、あなたの存在は許されるのよ”
言葉がなくとも伝わってくる傲慢な慈悲。救世主じみた顔を見る度、アルクは息苦しさを覚えた。
「少しだけ涼しくなってきましたね。もう秋ですか。季節は早いものです」
「本当だな」
「冬になって、春になったら……卒業、ですね」
ちら、と熱のこもった視線が向けられる。アルクは顔を引き攣らせないよう注意しながら、何も言わずに微笑んだ。
果たされることのない婚約。王宮から目を付けられないために従っているが、それもクーデターの時までだ。だがいくら苦手な相手とはいえ、何の罪もない彼女を裏切ることは憚られる。行動を起こす前に、せめて自らの口で縁を切りたいと、何度も思っていた。
「学院の食堂は久しぶりだな」
「アルク様は最近、自室で召し上がられていましたものね」
二人が食堂に入ると、その場は一瞬沸いた後、水を打ったように静まり返る。アルクは騒がしいのは好きではないが、こういう静けさもまた嫌いだった。体中に突き刺さる、勝手な理想を押し付ける生徒達の目。誰も彼もアルク・ソルディウスの虚像を見ている。自分がそう仕向けているというのに、そうでしかいられない自分を思い知らされるようで、苦痛だった。
ふと、一人の少女が目に入る。
ソルヴィアでは少数に入る黒髪。母と同じ色の髪は、少しだけ寝癖がついていた。
アルクは一応、その生徒のことを情報としては知っている。ローレンス家の病弱な一人娘……の筈だが、山盛りのパンを頬張っているところは健康体にしか見えない。良い食べっぷりに思わず見入っていると、その暗い瞳が自分に向けられた。
――その瞬間、体が痺れた。
なんて、感覚を言葉に起こせば一目惚れのようである。しかしそれは、本能の警鐘だった。この少女はただの令嬢ではない、と。そしてアルクのその勘は当たっていた。
セシルに近付き、魔術を行使する少女。アルクは彼女の目的を明らかにするため、術にかかったふりをした。そして傍で見張った。
陽族にしか見えない容姿。魔と陽の二つを併せ持つリリアナ・ローレンス。母のように単身で王都にやってきて、王族に近付いた少女。
アルクは、少しずつ彼女のことを知っていった。
花に注がれる、寂しげな眼差し。
遠くを見つめる、何かを諦めたような顔。
パンや焼き菓子に目が無い。
汚れを気にせず土いじりをする。
意外と華やかな色の服が似合う。
友人をよく気にかけている。
計算された愛らしさの向こうにある、無垢であどけない素顔。
たまに覗かせる、嫉妬らしき感情。
見舞いの時に見せた、苛烈な一面。
夜襲を受けた際、躊躇なく相手の命を奪ったところ。
……虫を殺すことさえできなかった母とは、似ても似つかない一面だ。
アルクは彼女に、母を重ね見ているだけだと思っていた。
しかし今となっては、それさえ言い訳だったのではないかと感じている。
結局のところ最初のあれは、ただの一目惚れだったのではないかと。




