第三十二話「牢獄」
祭壇に膝をつき、祈りを捧げる聖女。神殿のステンドグラスが朝に照らされ、彼女の髪に色とりどりの光を落とし、宝石のように煌めく。
その美しい光景を前に神官は言葉を失っていたが、聖女が小さく振り返るとハッと我に返った。
「エレナ様、魔封じが完了しました」
「ご苦労様。暴れたりはしませんでしたか?」
「はい……意識はあるようですが反応が鈍く、抵抗はありませんでした」
「そうですか」
学院の敷地内で魔力を行使し、第四王子に危害を加えようとしたリリアナ・ローレンス。彼女は一晩の内に学院から離れた聖騎士団管轄の牢獄へ送られ、そしてつい先ほど、魔力封じの術が施されたところである。
検査の結果、彼女の血液には夜族と同じ成分が確認された。魔女どころか夜族の血を引く者だったのだ。リリアナを疑っていたエレナでさえ、その結果には驚いた。しかも純血ではなく陽族の血も混ざっているという。――道理で上手く擬態できた訳だ。
「セシル様のご様子は?」
「とても冷静ではいらっしゃらないご様子でしたので、鎮静剤でお休みいただいております」
「お可哀想に。セシル様もあの女に騙されたのですね」
リリアナが捕らえられてからというもの、セシルはずっと『彼女は他の夜族から僕を助けてくれただけだ』と主張し続けていた。
確かにあの場所には、一体の夜族の“炭”が存在していたが、仲間割れでもして争ったのだろうと神殿側は見ている。そもそも夜族の血を引くものが、素性を隠し学院に入り込んでいた時点で罪なのだ。リリアナ・ローレンスは黒である。
「それにしても、まさかあんな普通の少女が夜族だとは……」
(普通、じゃ無かったわよ)
エレナは心の中でぼやく。
(ええ、あの女は普通なんかじゃなかった。普通だったら、あんな地味で冴えない女をアルク様が選ぶ訳ないもの。アルク様があんなに私に冷たくなさるなんて、あり得ないもの。絶対になにか裏があると思っていたのよ)
どうしてもっと早くに気付けなかったのか、とエレナは過去の自分を責めた。リリアナを初めて見かけた、朝の食堂。あの時にもし気付けていれば、自分はこんなにも傷付かずに済んだのだ。
――どこで何をしていても、頭にこびりついて離れない二人の姿。エレナは、まだアルクとリリアナの噂が立ち始めの頃、一度だけ二人の様子を盗み見たことがある。
中庭で、二人は肩を触れ合わせること無く、友人の域を出ない距離で会話をしていた。内容は、天気がどうだとか、食堂の何が美味しかっただとか、そういうどうでもいい話ばかり。そこに周囲が噂するような男女の熱は無い。
けれどエレナは羨ましかった。自分はアルクとそのような下らない会話を楽しんだことなど無いからだ。彼との会話といえば、授業の内容に関する意見交換だとか、最近の夜族の動向についてだとか、貴族社会の情勢についてだとか、そういった話ばかり。
今までは、それが自分達ならではの特別な会話だと思っていたが、アルクとリリアナが笑い合っているところを見ると、彼らこそが特別だと突きつけられるように感じた。
しかし、一々目くじらを立てて心の狭い女だと思われたくはない。正統な婚約者として余裕をもって、立場の違いを分からせてやればいい。……そう、思っていた。
どこにでもある雑草を大事そうに握り締めるリリアナに、腹が立った。
着飾った姿でアルクと街へ出掛けたというリリアナに、心臓が冷えた。
舞踏会でアルクがそこにはいない誰かを見ていた時、心が軋んだ。
賊に襲われ大怪我を負ったアルクが、無意識にその名を口にした時――何かが壊れた。
夜色の髪と瞳。純情ぶった顔が、たどたどしい喋り方が、徐々にアルクを蝕んでいく。エレナを蝕んでいく。
エレナは嫉妬に突き動かされ、リリアナに魔女の疑惑をかけた。それが失敗すると、今度は彼女を暴漢に襲わせた。しかしそれも失敗。あげく罠に嵌められたのはエレナの方だった。
学院内に広がる身に覚えのない不義の噂。エレナはそれを、リリアナの仕業だと考えている。あんな何も知らない子供みたいな顔をして、よくやるものだと反吐が出た。
おかげでエレナは父親に呼び戻され、散々詰られたのだ。アステリア家はエレナとアルクの婚姻を条件に、王妃から多額の支援を受けている。それだけでなく、エレナの兄には聖騎士団の副団長の座が約束されていた。それらの見返りを失うことを恐れた父は怒り狂い、エレナを蹴り、殴った。服の上から見えない場所を狙い、痛めつけた。
――エレナは、服の上から痣を撫でる。
(大丈夫です、お父様。これで全てが元通りですから)
悪夢はすべて、ただの夢だったのだ。
アルクはリリアナにおぞましい魔術を使われ、正気を失っていただけ。リリアナと引き離せば正気に戻るだろうが、すぐに戻らないのであれば神殿で解呪の儀式を行おう。
エレナは今日、学舎でアルクと会う時が待ち遠しくて堪らない。本当は夜の内に会いに行きたかったが、まだ体調が万全ではない彼の就寝を邪魔してはいけないと、どうにか我慢した。
(早くお会いしたいわ、アルク様)
恐ろしい悪女から、愛する王子を救いだした聖女。
王子は真の愛に目覚め、二人は手を取り合う。
(そうよ、これが正しい結末なのよ)
エレナは勝利の笑みを浮かべた。
それは聖女というには、あまりにも――。
*
シレネは冷たい牢獄の中で、もうずっと地面を眺めている。他にすることが無いからだ。
首、胸、腹、膝――体中に鎖が巻かれ、口には猿轡をはめられている。鎖には吸収の聖具と同じような効果があるようで、少しの力も入らなかった。
いっそ気を失ってしまいたいが、背中の痛みがそれを許さない。カーラの爪の毒は、細胞組織を破壊する類のものらしく、傷は塞がるどころかどんどん悪化していた。
(今は何時だ? 一体、どのくらいの時間が経ったんだ?)
地下牢では今が昼か夜かも分からない。
投獄されてからまだ数時間の気もするし、一日が経ったようにも思える。
(セシルは大丈夫だろうか。……彼は……もう、知ったのだろうか)
リリアナ・ローレンスが偽りの姿で、その正体は夜族の血を引く潜入者であったということを。あの日々が全て嘘であったということを。
真実を知ったアルクがどんな顔をするのか、シレネは想像するだけで寒くなった。
――牢の外で足音が響く。カツ、カツ、カツ、と近付いてくるその音は、まるで死へのカウントダウンのようだ。
(尋問か、拷問か……)
持ち得る情報を全て手紙に出しきり、レティシアに託したシレネ。引き出せるものが無いと知られれば、すぐに処刑されるだろう。
(なんだか、全て嘘みたいな人生だったな)
最愛の母も、恋した人も、みんな幻。シレネの手元には何も残っていない。
……もし、自分が陽族として生まれていたら。
本当にリリアナ・ローレンスだったなら。
レティシアと仲良くなって、アルクに恋をして、エレナに嫉妬して……奇跡が起きて彼と想いが通じ合ったなら、どんな人生だったのだろう。
死の間際には過去が駆け巡ると聞くが、シレネの頭の中はありもしない妄想でいっぱいだった。
(ああ……妄想ばかりが上手くなる。どうせなら最後の力を振り絞って、もう一度自分を洗脳してみようか? 今度は途中で醒めないように)
ガシャン、と牢の錠が開けられた。
シレネは顔を上げることさえしない。
ただ、甘く優しい夢に溺れようとしていた。
夢の中で、“彼”の声が自分を呼ぶ。
――「リリアナ」
耳心地の良い低い声。シレネはうっとりと、その声に沈んで……
「リリアナ」
「……ん?」
それは、確かに肉声だった。
シレネは顔を上げる。目の前に立っている人物は――外の灯りに逆光になっているとはいえ、見間違えるはずもない。
(どうして、ここに……)
それはアルクだった。彼は強張った表情でシレネを見下ろしている。シレネはその目を直視することが出来なかった。
(早速、恨み言でも言いにきたのだろうか?)
そんなことを考えていると、彼がスッと腰の剣を抜く。……恨み言どころか、恨みを晴らす気らしい。
(アルク自らが手を下しに来るとは、想像もしていなかったな。そんなに騙されたことが許せなかったのか?)
まあそれはそうだろう、と思う。洗脳されていた所為で、彼は婚約者を傷付け、周囲に醜態を曝すことになったのだから。
シレネは目を伏せ覚悟を決める。無言で振り下ろされる剣。
それは、シレネを捕らえていた鎖を断ち切った。
(……ん?)
次々に壊される鎖。戸惑うシレネの腰に手を回し、強引に立ち上がらせるアルク。
「行くぞ、時間がない。歩けるか」
「……んん、」
猿轡で話すことのできないシレネは、首を横に振る。魔力も体力も底を尽いており、支えられて立っているのがやっとだった。シレネの状態を察したアルクは「サイラス」と当然のように傍らにいる男を呼び付ける。
次の瞬間、シレネはサイラスに抱えあげられた。
「私は後処理をしてから行く。サイラス、お前は先に行け」
「ああ、もう、本当に……ハア。かしこまりました」
「ん、んん、」
シレネを無視し、サイラスはアルクを置いて走り出す。牢の外には二人の看守がいたが、どちらもサイラス達を追うことは無かった。彼らはぼんやりと、牢から出てくるアルクただ一人を見ている。
シレネはサイラスの肩越しに、看守に向き合うアルクを見た。
――その青い瞳が、何か不思議な色に輝くのを見た。




