第三十話「恋のおわり」
リリアナとアルクが出会ってからちょうど三ヶ月。
身も心も凍てつくような冬の最中、アルクは突然エレナとの婚約を破棄した。
当事者間の話し合いで進められたそれは、両家の了承も得られていなければ、何一つ正式な手続きも踏まれていない。エレナは簡易的な合意書に署名したというが、どういう訳か婚約破棄を受け入れていない態度である。しかしアルクとエレナの間にはもはや、修復の余地すらない決定的な亀裂が走っていた。
『真実の愛を見つけた』と皆の前で宣言したアルク。
リリアナは知っている。彼は真実の愛を見つけたのではなく、“偽りの愛に堕ちた”のだということを。
婚約破棄はあくまでアルクの自主的な行動であり、リリアナが望んだものではない。寧ろ、リリアナとしてはこれ以上目立つことは避けたかった。
アルクが婚約破棄に踏みきった理由は、盲目的な愛に溺れたか――それ以上に、婚約者への不信があったかだ。
リリアナは知らなかったが、エレナには婚約破棄の話よりも前に、よくない噂が浮上していたという。それが、エレナが男を連れ込み逢引していたという不義の噂だ。まるで、リリアナが嵌められそうになった状況そのままである。
リリアナには信じられなかった。潔癖な雰囲気を纏い、アルク一筋に見えた彼女がそんなことをするなど、想像もできない。だが、リリアナはそもそも彼女のことを何も知らなかった。本当はそういう一面もあったのかもしれない。
その噂が本当なら、夜明けの花園でのアルクの落ち込みようも理解できる。彼は婚約者の浮気に傷心中であり、そこを悪い女に付け込まれたのだ。
「リリアナ、寒くないか? もっとこっちに寄ったらどうだ」
「……はい」
冬の花園、白い吐息が二つ。
リリアナはベンチに腰かけたまま、隣のアルクに少しだけ近付いた。すると、後ろに回っていたアルクの腕が、リリアナの肩を強く抱き寄せる。
らしくない行動に、リリアナは驚いて彼の顔を見上げた。そして、自分に送られる熱い視線に耐え切れず目を逸らす。ドクン、ドクンと心臓が脈打つが、氷のように冷たい。
「どうした? 照れているのか?」
「……ところで――先程のこと、大丈夫ですか?」
先程、廊下で遭遇したエレナ。彼女の様子から、このまま黙って引き下がるとは思えなかった。
「言っただろう、君は何も気にしなくていいと。気を遣わせてすまない」
「お城から呼ばれているって、聞きましたけど」
「いいんだ。無視して押し切る」
(は……そんなこと、一国の王子ができるものだろうか?)
いくら王位継承権を持たないからと言って、そんな我儘は許されないだろう。
魔眼に堕ちたアルクは、すっかりおかしくなった。
リリアナは、アルクの向こう側に目を向ける。緑がなくなりすっかり寂しくなったアーチの横、ひっそりと立っているのはサイラスだ。最近彼はアルクに煙たがられているが、それでも目の届く距離で主を見守り続けている。その顔にはいつもの胡散臭い笑みとは違い、複雑な心境が滲んでいた。サイラスは、アルクの身勝手な婚約破棄には賛同しかねているらしい。
眼鏡の奥、鋭い眼光がリリアナを牽制する。
「誰を見ているんだ?」
「いえ、その、」
「サイラスか。本当に無粋な奴だ。付いてこなくていいと言ったんだが」
「……王子がお付きの者も連れずに行動するのは、流石に危険ですよ」
と、最も危険な人物が言っているのがお笑い種である。
「王子、か」
意味深に呟き、遠い目をするアルク。リリアナはその反応に首を傾げる。アルクは暫く黙っていたが、やがてゆっくりと冬空に紡ぎ出した。
「君も聞いたことがあるかもしれないが……私は、王妃の子ではない」
(……ああ)
そのことはリリアナも知っている。第三王子が王の隠し子であるという情報は、潜入前に調査員から得ていた。アルクに対する嫉妬か僻みか、生徒達がたまに話しているのを聞いたこともある。
噂によれば王位継承権を辞退した理由もそこにあるというが、だからといって、出自がアルクの価値を損なっているとリリアナは思わない。
アルクの額には太陽神の加護の徴があり、その身にソルディウスの血が流れていることを証明しているのだ。そして、それに見合う美と智と武を併せ持っている。
……それでも、アルクにとっては割り切れることではないのだろうか。
リリアナがかける言葉に迷っていると、アルクは寂しげに笑った。
「私の本当の母は――王宮には歓迎されない立場の人だった。だから私を隠れて生み、育てた。私は最初から王子だった訳ではないんだ。この額の徴が知られるまではな」
アルクは己の額に触れ、忌々しそうに爪を立てる。
「“神の加護の徴”……これが私を王子にし、私から母を奪った。身勝手に王子の烙印を押した奴らも、出自から私を疎んでいる。私は必要とされているどころか厄介者扱いの、名ばかりの王子だ」
「……、」
リリアナは口を開くが、出てきたのは空白だけだった。
これまで自分とは別世界の、恵まれた環境で生きていると思っていた彼が抱えていた闇。居場所の無さ。奪われた母という存在。自分と重なるそれに、リリアナは沁みる痛みと、孤独が薄まる妙な安らぎを感じた。
最初に花園で会ったあの日、アルクが言っていたことを思い出す。
『私の母も、花が好きだった』と。
過去形だったのは、今はもう会えない場所にいるからなのだろう。
リリアナは彼の額にある、神の加護の徴を見た。それは神に愛された証だというが、いくら愛されていても、神は抱きしめてはくれない。名前を呼んで頭を撫でてはくれない。
「こんなものがなければ、私と母は今も平和に暮らせていたかもしれないな。王子として見出されることなく、ただの普通の男として……」
(……徴がなかったら? この人が王子ではなかったら? そんなの、)
「だったら、よかったのに」
口からこぼれ出た言葉が、リリアナに己の心を自覚させる。
アルクが王子でなければ、彼を標的にすることはなかった。
彼を騙し、近付くこともなかった。
こんなに苦しい想いを知らないまま、生きて、死んでいけたのだ。
曇天を透かした青灰色の夕陽が、二人を静かに染め上げる。
「君が、私をただの男にしてくれるか?」
「えっ」
二人の影が重なる。気付けばリリアナは彼の匂いに包まれていた。
アルクはリリアナの肩に頭を凭れ、彼女に全てを委ねる。
「前に街へ出かけた時……休暇中に、二人きりになりたいと言っていたな。今すぐ二人で、誰もいない場所に行かないか? こんな窮屈な場所を抜け出して、君が望む場所へ。……私は君がいればそれだけでいい。――君になら、殺されても構わない」
正気の沙汰とは思えない言葉の数々。
それはずっと、リリアナが彼から引き出そうとしていたものだ。
偽りの愛に溺れて己を見失った、都合の良い傀儡。
――こんなのは、彼じゃない。
「何故そんな顔をするんだ?」
アルクは少しだけ顔を上げ、リリアナを見つめる。そんな顔とはどんな顔なのか、リリアナは彼の瞳に映る自分を見て思い知らされた。そしてそこに“本当の自分”を見つけた。
(彼の鏡になるだなんて言っておきながら、彼がわたしの鏡になってしまったな)
「……アルク様」
「なんだ?」
「やっぱり、お城からの呼び出しを無視するのはいけないですよ。それに、ご卒業前でお忙しいと思うので、休暇の約束もなしで大丈夫です」
「何故、突然そんなことを言うんだ?」
アルクは拠り所を失ったような、途方に暮れた顔をする。リリアナは彼の体をやんわりと押し戻し、ベンチから立ち上がった。
「もう、いいんです。アルク様がすぐに結婚しちゃうって、焦ることもなくなったし」
「……リリアナ?」
花園の中央を歩いていくリリアナを、アルクは追いかける。あともう一歩のところで、リリアナがくるっと振り返った。
「でも折角だから……あの時の“お願い”、別のものに変えてもいいですか?」
街へ出かけた日、贈り物の代わりにした願いごと。
リリアナはそれを、自分のために使うことにする。
リリアナがポケットの中から取り出したのは、決して美しいとは言えない色褪せた花の栞だ。それをアルクに突き出す彼女の顔は、アルクが見たことも無いくらい穏やかで透き通っている。アルクは何故かリリアナを失ってしまうような気がして焦った。だが、繋ぎ留める隙が見つからない。
「この花、覚えていますか? アルク様がくださった花です。あの時教えてくれた名前……忘れてしまったので、もう一度教えていただけませんか?」
「その花の、名前?」
リリアナは瞬きもせずアルクの言葉を待つ。
アルクは、自分がこれから口にする名前が、彼女にとってどんな意味があるのかを知らない。それでも特別なものであるように思え、丁寧に紡いだ。
「……“シレネ”」
夜色の瞳が波打つ。
少女――シレネは、零れそうに笑った。
パッとアルクの傍に駆け寄り、その胸元に顔を押し付ける。彼の力強い心音を己の中に刻み付ける。アルクは先程まで自分が抱きしめていたというのに、どうしていいか分からず、その背に手を回すこともできない。
「アルク様」
シレネは何とも形容しがたい顔のアルクを見上げる。
そして、
最初で最後の口付けをした。
互いの吐息が溶け合う。
シレネは少しだけ唇を緩め――彼の中にある自らの魔力を吸い取った。
ゆっくりと唇が離れる。アルクは驚きに心を攫われたように立ち尽くしていた。洗脳が解かれたとはいえ、その瞳にはまだ完全に自我が戻ってはいない。しかし早ければ明日にでも正気に戻るだろう。シレネに囚われる前の、本来のアルクへと。
交わした会話。触れた温もり。
重ねた時間、築いてきた関係が、全て嘘になる。
シレネはそのことを考えると胸が軋んだ。バラバラと崩れ落ちそうだった。それでも彼を解放したのは、己の心に気付いたからである。本当は随分前から気付いていたが、認められなかっただけの、臆病な恋に。
母の死を知った後も、何故自分が生きていたいと思ったのか。
空っぽだった自分を埋めた感情が、何であったのか。
虚無の中から引き上げてくれたのは、誰だったのか。
(わたしが生きていたかったのは、この人の傍にいたかったからだ。この人の声を聞いて、隣で温もりを感じていたかった)
だから、自分が生き残るために彼を闇に捧げるなど、破綻している。
彼を失えば、生きている意味が無くなるのだから。
「アルク様――大好き、です」
「リリ……アナ……」
アルクの目が、眠そうに細められていく。洗脳解除の反動だ。シレネは倒れそうになった彼の体を受け止めた。
「アルク様!」
サイラスが慌てて駆け寄り、シレネの手からアルクを奪い取る。そして、敵意を剥き出しにシレネを睨んだ。シレネはサイラスの様子に、もしかすると彼は何かに気付いていたのではないかと思った。暴漢に襲われかけた時の態度も、どことなく普通の女生徒に対するものでは無かった気がする。今更真意を確かめようとは、思わないけれど。
「貴様、アルク様に何をした」
「……疲れて眠ってしまっただけだと思います。色々大変だったでしょうから」
アルクが立てる小さな寝息に、サイラスは見るからに安堵の色を浮かべる。シレネは、サイラスのアルクへの想いを感じ取り安心した。彼がアルクの孤独に寄り添ってくれればいい、と。
シレネはアルクの寝顔を少しだけ見つめてから、二人の横を通り過ぎ、花園の出口へと向かう。
「どこに行かれるのですか?」
サイラスの問いに振り返るのは、悲しく、しかし清々しい笑み。
(さようなら……“アルク様”)
いつまでも耳に残る、あの花の名前。
あなたの紡いだ優しい音が、本当のわたしだったら良いと思った。




