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第二十九話「堕ちる」

 ベッドの上で膝を抱える少女。カーテン越しに透き通った紺色の光が差し込む。リリアナは結局一睡もできないまま、朝を迎えようとしていた。


 日が完全に昇れば、またいつも通りの一日が始まる。

 それはすぐのことだというのに、もう少しも待てず、リリアナは夜の気配が濃く残る部屋から逃げ出した。



 外に出たリリアナを迎えたのは、薄明に輝く白い月。涼やかな陽光を纏うそれは、静謐で、神聖で、彼に似ている。気付けばリリアナは走っていた。息を切らせ、いつものあの場所に向かっていた。

 

「はあ……はあっ」

 まだ薄暗い、冬の殺風景な花園。そこには誰もいない。


 リリアナは、台風の翌朝にここで花壇を整えたことを思い出した。真面目な顔で手ほどきをしてくれたアルク。リリアナは彼みたいに上手くできず、手も靴も泥だらけにしてしまった。泥の跳ねた服を水道で洗っていたら、少しだけ注意された。

 そしてその帰り道で彼に花を貰って――本当の名前を呼ばれた。アルクが口にしたその名の一音一音が、今もリリアナの耳に残っている。遠い昔の母の声よりも、鮮明に、鮮烈に。



 一人佇むリリアナ。彼女の周囲が、少しだけ明るく、少しだけ温かくなった。冬の太陽よりも優しい気配が、リリアナに夜明けをもたらす。


「こんなに朝早くから、何をしているんだ?」

「……アルク様?」

 リリアナは都合の良い幻聴を疑ったが、振り返るとそこには確かにアルクが立っていた。一晩中寝られなかったリリアナよりも、彼は酷く疲れた顔をしている。

 もしかすると怪我が痛んで眠れなかったのかもしれない、とリリアナは思ったが、怪我を知る筈のない立場で心配することは出来なかった。


「わたし、なんだか眠れなくて。ちょっと散歩をしていたんです。アルク様はどうしてこちらに?」


 アルクは答えられない。昨晩の一件を知り、いち早くリリアナの無事を確かめたくて、いるかも分からない花園に来てしまった……などと。

 いつもと変わらない笑みを浮かべるリリアナを前に、アルクは感情のやり場を失う。


(そうだ……彼女は強い。一般人に襲われたところで、どうってこと無いだろう。私は彼女に傷付いていて欲しかったのか? 縋られたい、支えたいとでも? ……私はこんなにも浅ましい男だったのか)



 二人はどちらからともなくベンチに腰掛ける。それから暫く沈黙が続いた。


「あの、アルク様……サイラスさんは?」

「いない。私と二人では不安か?」

「え? いえ……」


 どこか刺々しい物言いにリリアナは戸惑った。アルクの横顔はいつもの冷静さとは違う、不穏で落ち着かない影を帯びている。

 その理由について、リリアナには思い当たることしかなかった。何者かの夜襲、婚約者との間に生じた溝、従者との仲違い。アルクは今、相当参っているに違いない。


 とりあえず昨晩のことは知らされていなさそうで、リリアナは安堵する。アルクなら、もし知っていればすぐに心配するだろうし、こんな朝から一人で出歩いていることを叱るに違いないからだ。


「あの……アルク様、大丈夫ですか?」

「何がだ?」

「その、お疲れみたいなので」


「……ああ、疲れた。私はもう、疲れたんだ」

 アルクは深い溜息と共に頭を垂れた。手で額を覆い、ぎゅっと前髪を握り締める。


 復讐を果たせなかった己の心の弱さに裏切られ、唯一心の内を明かしていた同志サイラスには手の平で転がされ、自分の所為とはいえ悪に手を染める婚約者の醜悪な一面を知り――隣にいる少女もまた、魔眼を使い自分を操ろうとする敵なのだ。

 アルクは何も信じられなくなっていた。


「――何も言わないんだな」

「……アルク様のそんなところ、初めて見たので」

「どんなところだ? 君にはいつも、私はどう見えていた?」

「……いつも落ち着いていて、優しくて、」


 リリアナの答えに、アルクは乾いた笑いを零した。自分がリリアナのことを何も知らないように、彼女も自分のことを何も知らない。復讐という目的の為に被ってきた、中身よりも大層立派な仮面しか見ていない。そのことが虚しくて堪らなかった。


 リリアナはアルクを見つめたまま、続ける。


「わたしが知らない色々なことを知っていて、お花が好きで、意外と食いしん坊で甘党で。真面目かと思いきや、女子寮に忍び込むくらい大胆だったり。それから、セシル様に当たりが強いけど本当は大切にされていて」


 淀みなく連ねられる、彼女の中のアルク・ソルディウスの姿。

 アルクは顔を上げた。そこには淡い朝陽を浴びた、儚い夜の瞳。


「君が見ているのは、私のほんの一部分だ」

「アルク様が見ているわたしだって、そうかもしれません。まだわたしが知らないアルク様のこと、教えてくださいますか?」


 リリアナはそっと彼の手に触れようとした。しかし震えが止まらず、服の下で握り締めて誤魔化す。


 繊細で弱い一面を見せたアルク。つけ入る隙を曝け出した彼に、リリアナは自分がすべきことを理解していた。だが心が強く反発していた。


「リリアナ。私は、自分のことが分からない。何をすべきか、何者かさえ……」

(何故、そんな弱音を吐くんだ。どうしてわたしなんかに、弱味を見せてしまうんだ)


 自分が何者か分からないだなんて、そんなのは、わたしみたいな奴の台詞なのに。

 

「……だったらわたしが、アルク様の鏡になります」

「鏡?」

「はい。わたしの目を見てください。そこに映るのが、本当のあなたです。わたしの声に心を傾けてください。わたしが、あなたのことを教えてあげます」


 二人の間の時が止まる。

 アルクはリリアナの瞳から、目が離せなくなった。


(もうこのまま……全てを彼女に、捧げてもいいかもしれない)


 どうせ、復讐もなせないのだから。

 組織の輪を乱すだけなのだから。


 それに、リリアナがいなければあの晩、自分は命を落としていたかもしれない。だったらこの命はもう――。


「アルク様」


 目の前の少女と、在りし日の母の姿が重なる。


 彼女の見ている、自分になりたい。




 アルクは、リリアナの術に堕ちた。







「ああっ、もうっ!」

 エレナは焦りを隠せない。


 既成事実を作り、リリアナの評判を貶め、アルクから引き離す作戦は失敗に終わった。アルクの従者であるサイラスが、リリアナを襲わせた男を現行犯で捕えたのだ。

 エレナ自身は男と直接やりとりはしなかった。しかし、優秀な従者と名高いサイラスなら黒幕まで辿り着いてしまうかもしれない。旧講堂に張り込ませていた女生徒達はすぐに逃げたというが、姿を見られていない保証は無い。


(私は一体何をしているの? こんな穴だらけの計画で……こんな、恐ろしいこと……)


 時間が経つにつれて、エレナは目を覚ましていった。

 通常の自分なら、こんな愚かな計画を実行しようとは思わない。神殿から聖具を持ち出した件もそうだ。もっと慎重に事を進めるべきところを、感情のままに動いてしまった。


 エレナは自身に起きている異変に恐怖する。

 こんな時こそ、心許せる友人に相談したかった。それなのに。


(思い出せないわ……あの者は、誰だった?)


 エレナは自分を導いた者が誰であったか、どうしても思い出せなかった。

 街で出会って以来、辛い時に隣で肯定し続けてくれた誰か。


 あんなに近くで話していたというのに、顔も声も、女か男かも、何も分からない!


 ベッドの上で肩を抱き震えるエレナ。


「あの、エレナ様……」

「今は一人にしてちょうだい!」

 エレナの剣幕に、声をかけた従者は怯む。だが立ち去らず、彼女に来訪者の名を告げた。エレナはサッと顔を青褪めさせる。

 

 ……アルクだ。彼がなんの約束も無しに訪れるなど初めてのことだった。身なりを整え、客室に出るエレナ。そこにいたアルクの表情は予想外に柔らかく、エレナはホッとした。


「どうかされたのですか?」

「ああ。この間のことを謝りたかったんだ。君に冷たくしてしまったことを、とても後悔している」

「アルク様……」

「それだけではない。私は最近ずっと……君を蔑ろにしてしまっていた。君の気持ちに胡坐をかいていたんだ。ちゃんと、君と向き合いたい」


 それは、エレナが初めて聞くような優しく甘い声だった。アルクは立ち上がると、ゆっくりエレナに歩み寄り、頬に触れる。

 エレナは夢かと思った。夢なら醒めなければいいと。


「エレナ。私の目を見てくれ――」


 何が何だか分からないまま、エレナは彼の瞳に呑まれた。

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