第二十四話「陽王」
太陽の見えない曇り空。鉛色の雲が、アルクの心に重く垂れこめる。
その日、彼は王城に向かっていた。
アルクの隣にサイラスの姿はない。黎明の鷹の統率者であるサイラスは、一昨日から学院を離れ、組織の隠れ家に行っている。ドゥラザークの和平軍と手を結ぶ交渉のためだ。話し合いは魔道具による通信で行われるという。
形だけとはいえ組織の旗頭であるアルクも、本来なら同席すべきだった。しかし王子の数日の不在は目立ちすぎる。怪しまれない為に、サイラスはアルクを部下に託し、単身で向かったのだった。
そんなサイラスの不在時、アルクの元に王城からの使者が現れる。
『殿下、国王陛下がお呼びです』
使者の言葉にアルクは耳を疑った。王妃ではなく王から呼び出されるのは初めてのことで、何かの罠ではないかと訝しんだ。
加えて、使者の風貌も不安を煽る。王の従者らしからぬ隠者めいた装いで、わざわざ人目を避けるように近付いてきたのだ。警戒せずにいられる筈がない。
しかし手にしていた書簡には、王の陽力が込められた印章が、確かに輝いていた。
国王の命令を無視することは出来ず、アルクは使者の指示に従って、誰にも知られぬよう密やかに学院を出る。サイラスが置いていった数人の護衛も同行させたが、彼らは城の外で待たされることとなった。
「殿下、足元にお気を付けください。この道のことはくれぐれもご内密に」
「……ああ。承知した」
馬車を降りたアルクは、使者と共に隠し扉を通り、地下の道を進む。この道は王の居住棟へと繋がる避難経路で、その存在は王とごく一部の者しか知らない。だから護衛達を連れてくることは出来なかったのだ。
アルクは王が自分にこの道を明かしたことに驚いていた。自分は王にとって、信頼の真逆にいると思っていたからだ。……だが、それが正しい。何しろアルクは――黎明の鷹は、既にこの道も把握している。王を追い詰めた時、彼を逃がしてしまわないように、退路という退路は調べ尽くしていた。
狭い道を進み、階段を上がると、そこは城の中。
国王の寝室の前に立ったアルクは、胸元に忍ばせた短剣を意識する。剣は馬車に置かされたが、いざという時の為の護身刀は気付かれることはなかった。
(気付かれていた方が良かったかもしれないな。私がこの場で王を殺しでもしたら、サイラス達の計画が崩れる)
アルクは、世界で一番憎い男に対面した時、自分がどうなってしまうかが分からなかった。
そして――生まれて初めて、王の寝室に足を踏み入れる。
そこは、陽王の名を持つ男の部屋には相応しくなく、薄暗かった。カーテンは閉め切られ、僅かな照明は心許なく、空気は薬のにおいで淀んでいる。
「来たのか」
垂れさがる天蓋の向こうから、ガラガラとしゃがれた男の声がした。民の前に立つ尊大な姿からは想像もつかない弱々しい声だ。アルクは思わず立ち竦む。怒り、憎しみ、悲しみ――その根源が、薄布の向こうで息をしていた。
ゆらりと影に手招きされ、アルクは重い足取りで天蓋の中へと進む。そこに居たのは、声そのままの男だった。
大きな寝台に横たわる王。頬は削げ、皮の目立つ喉からは呼吸のたびに掠れた音が漏れている。実際の年齢より、十も二十も老けて見えた。
近頃王の体調がよくないということはアルクも知っていた。しかし、ここまでとは思わなかった。弱りきった仇の姿に、自分の感情を見失うアルク。そんな彼に王の使者――忠実なる従者が、静かに教える。
国王は重い病に罹り、もう長くはないこと。民に不安を抱かせないよう、その事実を伏せているということ。病状を知っているのは王妃と次期国王である第一王子、医師や側近のみであること。
その中には、王が溺愛するセシルも含まれてはいなかった。
「アルク……」
王がひび割れた唇でアルクの名を呼ぶ。まるで父親の如きそれに、アルクは一気に目が覚めた。何の感情も抱いていないという事を知らしめるように、淡々と返す。
「ご無沙汰しております国王陛下。私に何か御用でしょうか」
「……今聞いただろうが、私はもう長くはない。この冬が最後の冬になるだろう。……口が利ける内に、お前と話しておきたかった」
「――病とは、頭の病でしたか」
「殿下!」
アルクの無礼に従者が声を荒げる。王妃からの侮辱に耐えてきたアルクでも、王の親しげな態度には冷静でいられなかった。
王は怒る従者を手で制し、僅かに目を細める。
「騒いではならん。ここにアルクが来たことが王妃に知れれば、あの女は私を殺し、お前に国王暗殺の罪を擦り付けるだろう」
自分の妻へのあまりの言い草に、アルクは眉を顰める。王はアルクの言いたいことを察し、目を伏せ、少しだけ口の端を上げた。
「あの女は、恐ろしい女だ」
一度は愛した女。王の彼女に対する愛情は、今も完全に失われている訳ではない。だからこそ、彼女の考えや行動が理解できるのだ。
野心に満ち、すぐに怒りや嫉妬に支配される、短絡的な女。だが昔はそうでは無かった。王妃が今のようになったのは、王が別の女――アルクの母を愛するようになってから。自尊心を傷付けられた彼女は狂ってしまった。
「お前の義理の兄は、母親の言いなりだ。私が居なくなれば、この国はあの女の思うままになるだろう。そして、お前にも容赦がなくなる」
「今までは、ご自分が守ってきたとでも?」
「……そうだな。私は、お前に何もしなかった」
反論しない王に、アルクは無性に苛々した。
アルクは知っている。王妃の反対を押し切り、アルクを他の王子達と同じサンクタ・ルミナ学院に入学させたのも、卒業後に王直属の聖騎士団に入れるよう手配したのも、目の前にいるこの男だということを。そうやって影で父親面をされることが、アルクには許せなかった。表ではまともに目を合わせようともしないくせに。
「アルク、逃げてもよいぞ」
「――は?」
予期しない言葉にアルクは呆ける。聞き間違いかもしれないと思ったが、その口はもう一度同じことを言った。
「逃げてもよい、と言ったのだ。王妃はお前の中に流れる血を疎んでいるだけではない。恐れている。ソルディウスの御子を傷付けることは許されないが、あの女にはそんな法律は通用しない。私の抑えが無くなれば、手段を問わずにお前を消そうとするだろう」
「……これまでと、なんら変わらないように思いますが」
呆れた声のアルクに、王はハッと目を見開いた。アルクに何度も暗殺の手が伸ばされていることまでは、彼は知らなかったのだ。
「そうだったのか……苦労をかけたな。ならば一層、ここを離れた方がいい。私が準備を整えよう。隣の国でもどこでも、好きなところで生きなさい。好きな相手と、好きなように」
今更、何を言っている?
アルクは体がカッと熱くなるのを感じた。感情の奔流に、目の前がチカチカ点滅する。
「人から母を奪っておいて、言うことがそれか?」
「……お前には、すまないと思って、」
王の言葉が途切れる。「陛下!」と従者が叫ぶ。
アルクはベッドの上に飛び乗り、王の首に短剣を突き立てていた。
ハア、ハアと肩で息をし、血走った目で父親を見下ろすアルク。今、彼は怒りそのものだった。
最愛の母を悪女に仕立て上げ、処刑した男。
残された子供を腫れもの扱いし、向き合おうともしなかった男。
それが今、死の淵に立たされて、罪悪感を整理するかのように身勝手な謝罪をしている。
(私が長年抱いてきた憎しみを、馬鹿にするな!)
アルクの手元が少しでも狂えば、王の命はない。従者は止めに入ることもできず、ただ祈るように二人を見ていた。
王は恐れることもなく、静かな目でアルクを見上げている。
「お前は、母親に似ているな」
「黙れ」
「私は……お前の母を信じることが出来なかった。王妃や家臣達の言葉だけに耳を傾け、彼女を悪と断じた。……信じたかった。信じようとしたのだ。だが、彼女が我が国の軍事情報を奪おうとしていた痕跡が、確かに残っていたのだ。だから……」
「嘘をつくな!」
母はそんなことをする人間ではない。裏表のない人だった。明るく、優しく、いつも笑顔で、花が好きで。
……実のところ、アルクは母のことをよく知りはしない。母を失ったのは六歳の頃。大人の事情など、知らずとも当然の歳である。
分かっているのは、母が辺境の地の出身であるということ。
和平を嘆願するために、王に近付いたということ。
その体に――陽族とは異なる血が、流れていたということ。
「嘘だったら、どれほどよいことか。彼女が私に近付いたのは策略であり、私達の関係は偽りだったのか、今も私には分からぬ。だが、一つだけ確かなことがある。私は間違いなく、彼女を愛したのだ。そしてお前が生まれた」
アルクの手が震える。
これ以上この男の言葉を聞いてはいけないと、早く殺してしまえと、心が叫びをあげる。
だが、体が、従わない。
「アルク。私にこんなことを言う権利がないことは分かっている。だが――どうか、お前は生きてくれ」
剣先が、首の皮を破った。一筋の血がシーツに流れる。冷静さを欠いた従者がアルクに切りかかろうとするが、王の視線がそれを止めた。病に侵されてもなお、その瞳の奥には、一国の王の威厳が存在している。
アルクは自分の手が憎くて堪らなかった。
(何故だ! 何故、殺さない!)
ここで殺しておかなければ、この男は勝手に病で死ぬ。
柔らかいベッドの上で、自分を慕う者達に見守られながら、静かに息を引き取るのだろう。
そんな幸福な最期を与えてよいのか?
今が、復讐を遂げる絶好の機会である。少し手に力を入れれば、それが果たせる。ようやく母の仇が打てる。
だというのに。
「何故……何故だ!」
アルクの手は、床に短剣を放り捨てていた。カラン、と冷たい音が響く。自己嫌悪に陥り混乱するアルクを、王は宥めるように見守っていた。その目に耐えきれず、アルクはベッドから飛び降り、部屋を飛び出す。後を追おうとする従者を、王が呼び止めた。
「陛下! このような真似、いくらなんでも許されません!」
「いいのだ。これ以上、私に罪を重ねさせないでくれ」
「陛下……」
従者はアルクへの怒りが収まらないようだったが、渋々王の手当てを優先した。
首の血を拭われながら、王は先程まで身近にあったアルクの体温を思い出す。とても熱く感じたのは、彼もまたソルディウスの御子であるからか。それとも、血の繋がりによる特別なものなのか。
(いつの間にか、あんなに逞しくなっていたのだな)
自分の心の弱さ故に遠くで見ているだけだった息子は、ずっと幼い印象のままだった。立派な青年となっていた彼に、王は誇らしさを感じる。とても本人には言えないが。
瞼を閉じると、かつて愛した女の顔が浮かんだ。
夜に混じる黒い髪。太陽の光など簡単に飲み込んでしまうその深い瞳は、いつもどこか遠くを見ているようだった。
ソルヴィア王国とドゥラザークの和平を、単身で王に願い出た彼女を、王も最初は無謀な愚か者だと笑った。何も分かっていない、身の程も知らぬ女だと。しかし、理想を語る彼女の純真な美しさにすぐに惹かれた。そして許されない恋に落ちてしまった。
だが一国の王である以上、夢ばかり見てはいられない。
和平を叶えてやることも、彼女への愛を貫くことも、どちらもしてやれなかった。
(すまない)
心の中で謝る時、浮かぶのは、いつも自分に都合の良い優しい笑顔。彼女はいつも笑っていた。花の香りがして、蜜より甘かった。
『ねえ陛下』
思い出の中の彼女が、静かに語りかけてくる。
彼女の後ろで、花が風に揺れている。
それは、彼女を囲っていた塔で、二人で過ごしていた時のことだ。
『なんだ?』
『一つ、お願いがあるのです』
『珍しいな。平和な世には時間がかかるが、それ以外ならすぐに叶えてやるぞ』
王妃と違い、彼女は我儘を言わない。そんな彼女からの願いごとなど、褒美以外のなにものでもなかった。
『……この子が生まれて、いつかこの塔を出ていくようになったら、この子の過ごす場所に花園を作っていただけませんか? 小さなものでもよいのです。いつでも、美しい花が見られるように』
そう言って、彼女は膨らんだ腹を愛おしそうに撫でた。
彼女は、いつか訪れる子供との別れを予期していたのだろう。世が変わらない限り、彼女が自由に羽ばたける日は来ない。だが生まれて来た子供は別だ。額に徴があれば、ソルディウスの御子として陽の光の下を生きていける……少なくとも彼女はそう信じていた。
『花園? ここと同じようなものか?』
『はい。どんな時でも心に安らぎをもたらしてくれる、美しい花々が……私の代わりに、この子を見守ってくれるように』
『……分かった。約束しよう』
――王は女との約束を守るべく、アルクが学院に入学する数年前に、匿名で花園を寄贈した。王妃に知られればアルクを特別扱いしていると非難される。アルクに知られれば、父を憎んでいるだろう彼が、花園に寄り付かないことは目に見えていたからだ。
「アルクは、本当にお前に似ているな」
王は幸福な夢の中に、沈んでいった。




