第二十二話「虚構」
パーティーの余韻が漂う、翌日の学院。放課後ともなれば生徒達は口々に昨晩のことを語り合った。
誰のドレスがどうだったとか、パートナーと喧嘩しただとか。……度々話題に上るのは、何より皆の目を惹き付けていたアルクとエレナの二人である。
「お二人のお美しさと言ったら……夢でも見ているようだったわ」
「あら、でもアルク殿下の方は、どこか心ここにあらずだったみたいよ」
「じゃあやっぱり、あの方の本命は、」
「やだ! そんな訳ないじゃない! きっとお疲れだっただけだわ」
そうよね、そうよね、と互いに言い聞かせ合う女生徒達。その内の一人が、自分達に向けられた視線に気付き、ビクリとする。他の生徒も気付いて顔色を変えた。
「……それより聞いて! セシル殿下が最近おかしいのよ」
女生徒達は話題を変え、逃げるように去っていく。
遠ざかる背中を見つめる翡翠は、暗く濁っていた。
*
学院がパーティーの話で賑わっている頃、リリアナは授業を休み、朝からずっと自室に籠っていた。昨晩の雨で冷えた体は、魔力の消耗と精神的な衝撃も重なり、限界を迎えている。
(気持ち悪い……)
寒さと熱さが同時にくるような不快感。
右を向いても、左を向いても、頭がぐらぐらして落ち着かない。
息をするだけで体が疲れた。
(体調を崩すなんて、いつぶりだろう)
幼い頃はよく熱を出していた。母と二人で暮らしていた時は、風邪をひくと特別優しくしてもらえることが嬉しくて、元気でも具合の悪いふりをしたこともある。
ドゥラザークに来てからは、風邪はひいてはならないものになった。弱さを見せてはいけない。道具として価値があると思われていなければならない。例えどんなにフラフラでも、何事も無いように振る舞い、夜は一人で吐き気や悪寒に耐えていた。
このまま死んでしまうかもしれない、という不安を何度も乗り越えて来た。
(……あの頃は、母のために生きなければならなかった。なら今は? 何のためにわたしは生きている?)
唯一の生きる理由であった母が、既にこの世にいなかったと知った今、リリアナは自分を見失っていた。胸の呪印は消えており、盟約が無効となっていることには気付いている。しかし自由を得られたところで、その先は虚無だ。
(わたしはずっと、いない人のために生きていたのか)
なんて愚かだろう、と自己嫌悪する。
自分を利用するために真実を伏せていた夜王やアビス、そしてそれ以上に、親切な顔で話を合わせていた教育係にも腹が立つ。けれど誰よりも憎いのは自分自身だ。
きっと自分は、生きるために自分を騙していた。
自分のために、母を妄想で弄んでいた。
――今思えばレティシアを魔獣から助けたのは、魔獣に殺された母を思い出さないための防衛本能だったのだろう。でなければ、無関係の陽族を庇う訳が無い。善人ではないのだから。
(わたしがこんなに身勝手だから、お母さんは、わたしを置いて行ったの?)
牢から逃げた母。ずっと傍に居てくれるといったあの言葉は嘘だったのか。
(もう、分からない。何も……)
母を失ったことで、リリアナは空っぽになった。
夜族でも、陽族でもない自分。
無感情な道具でも、純真無垢な少女でもない自分。
母だけが知ってくれていると信じていた、本当の自分。
それが、消えた。
「ゴホッ、……ゲホッ、エッ、」
咳き込む。喉から鉄の味が滲む。
(このまま、ここで死んだら、どうなるだろう)
――コン……コンコン……コン!
部屋のドアがノックされる。妙にまごついたリズムだ。寮の使用人だろうか? 今日は体調不良で休むと伝えていたが、余計な気を回しているのかもしれない。
リリアナは無視を決め込む。が、何度も何度も繰り返されるノックに、仕方なくベッドから這い出し、ドアを少しだけ開けた。
「あ――」
ドアから出て来た少女の様子に、青年は用意していた台詞を忘れ、呆けた顔をする。リリアナもまた意表を突かれて呆然とした。不躾な訪問者は、女子寮にいる筈の無いアルクだった。
「す、すまない、失礼する」
ぐっとドアの隙間に手をねじ込み、体を滑りこませる彼。リリアナは表情を繕う余裕もなく、冷たい眼差しを向ける。女子の自室に強引に押し入る人物では無かった筈だが、遂に理性のタガが外れたのだろうか? と。
そんなリリアナの反応に気付き、アルクは早口で弁解した。
「君の体調が優れないと聞いて見舞いに来ただけだ。前に見舞いに来てくれと言っただろう」
アルクは顔見知りの使用人に口を利いて、こっそり入れて貰ったのだと言う。通路に居ると他の生徒に見つかるから、早く中に入りたかったらしい。
「そ、ですか」
「……本当に、大丈夫か?」
焦点の合わないリリアナ。ぼんやりした返答に、アルクはどうしていいか分からず立ち尽くす。閉め切った部屋の淀んだ空気、床に散らばったままの紙が、今の彼女の状態を表しているようだ。アルクは何気なく、紙を拾おうとする。
「触るな!」
突如、響き渡る怒声。リリアナのそんな声を聴くのは、アルクは初めてだった。
刃のように鋭く、それでいて風雨に曝された花のように、今にも折れてしまいそうな儚さ。リリアナは肩で息をしながら、アルクを睨んでいる。
「君の大切なものだったのか。すまない」
驚きと悲しみを含んだ、穏やかな声。リリアナは脱力し、ベッドに腰を下ろした。
「こちらこそ、申し訳ございません。ご無礼を……」
「いや、いいんだ。体調の悪い時に押しかけた私が悪い」
アルクはリリアナの様子を窺いながら、部屋の灯りを付け、椅子をベッドに寄せて浅く腰掛ける。
「私に気を遣わず、横になっていてくれ。熱はあるのか? 食事は?」
「……はあ」
「……まだのようだな。使用人に何か持ってくるように言おう。食べたいものはあるか?」
「……特には」
アルクの言葉が柔らかく、リリアナの耳を撫でていく。暗闇に沈みかけていた意識が、彼が灯した明りに徐々に引き上げられていく。
「大分辛そうだな。昨晩は雨で冷え込んでいたから、その所為か? ノートン嬢も今日は欠席していた」
「レティシアが?」
「ああ。パーティーの直前に倒れたらしく、セシルが医務室に運んで、ずっと付き添っていたそうだ」
リリアナは、レティシアのパーティーを台無しにしてしまったことに罪悪感を抱いた。それと同時に、セシルがレティシアを放って遊び呆けていなかったことを嬉しく思う。そんなことを思える立場では無いと理解しながら。
「……アルク様は、パーティー、楽しまれましたか?」
リリアナの問いに、アルクは気まずそうに視線を逸らす。リリアナは胸の痛みに耐え、彼を見つめた。
アルクがどんなに優しくても、それは洗脳されているだけ。
そして、嘘偽りの中にあっても、彼は大切な人のことを忘れてはいない。
その事実を自分の中に刻み付けたかった。
そうでなければ、また都合のいい妄想に縋ってしまうかもしれないから。
それなのに彼は、暫く自分の手を見つめた後で、ポツリと言うのだ。
「いや……君のことが、気になっていた」
じわり、じわりと身体を浸食し、遅れてやってくる甘い痺れ。
リリアナはまた、自らの術に騙されそうになる。
「顔を見ることが出来て良かった。私はもう帰るから、ゆっくり休んでくれ。……ああ、そうだ」
アルクはパッと立ち上がり、持っていた包みをサイドテーブルの上で開く。中には彼の好物の焼き菓子が詰まっていた。
「食欲が無くても、これなら食べれるかと思ったんだ。私の場合は、だが」
「……ありがとうございます」
「菓子だけでは栄養が足りないから、後でちゃんと食事も取るんだぞ」
アルクは子供に言い聞かせるみたいに言うと、外の様子を気にしながら、さっと部屋を出て行った。
リリアナはそれを見届けた後、こんがり黄金色のマドレーヌに手を伸ばし、一口頬張る。サクッとした表面、みっちり詰まった食感。バターの甘じょっぱい香りが鼻を抜けた。
美味しい。が、乾いた喉にパサパサと纏わりつき、リリアナは咽る。慌てて水差しを掴み、直接口に流し込んだ。
「ぐっ……げほっ……ふう」
思い出した空腹。
蘇る生存本能。
とりあえず、今は生きていたいと思った。
しかし、何のために?
それを認めてしまうのが恐ろしい。
何故ならそれは、過去の幻影よりも儚い、元から存在しない虚構だからだ。
*
「まさかあなた様が、女子寮に忍び込むなんて」
「人聞きの悪いことを言うな」
「事実でしょう。それも私を付けずに……流石に油断し過ぎです。それで、彼女の様子はいかがでしたか?」
「分からない。あんな彼女を見るのは初めてだった。ボロボロで、今にも壊れてしまいそうな……」
先ほどのリリアナを思い出し、アルクはぎゅっと拳を握りしめる。サイラスは眼鏡の奥で、鋭く目を細めた。
「やはり、昨晩何かあったのは間違いないようですね」
サイラスはアルクの命を受け、リリアナの監視にあたっている。
黎明の鷹の実質的なリーダーで、第三王子の側近でもある彼は多忙を極めており、四六時中彼女に張り付いていることはできない。しかしパーティーの夜は、アルクの護衛を他の者に任せ、リリアナの動向を見張っていた。何かが起こる予感がしたからだ。
そしてそれは的中した。
突然寮を飛び出したリリアナ。サイラスは彼女を追うも、森の中で見失ってしまった。――魔術による妨害を受けて。
「昨晩、学院の結界の一部に乱れがあったそうです。冬期に陽力が弱まるのはよくあること、と学院側は大きく問題視していませんが――まあ実際は、魔獣騒動からまだ日も浅い今、新たな問題で信用を失いたくないだけでしょうね」
「では何者かが侵入して、リリアナに接触したということか?」
「……恐らくは。あの時感じた魔力は、彼女のものとは異なるようでしたから」
サイラスは珍しく余裕の表情を崩し、神妙な顔をする。
「アルク様。裏にいるのは、只者ではありません。私の気配に気付いたこと、冬季とはいえ結界内であれほどの魔術を扱えること――相当の手練れに違いないでしょう。どうか、警戒を怠らぬように」
「いつも、そのつもりなんだがな」
「ならば考えを改めてください。できるだけ単独行動を控えて……あと、護衛を増やしましょう。信頼できる者を何名か」
「自分の身は自分で守れる。それより、セシルの身辺警護を強化してくれ。夜族が王族を狙っているならあいつも危険だ。セシルに気付かれると撒かれるから、くれぐれも内密に」
サイラスは自分の心配を受け入れようとしない主に、もどかしさを抱いた。アルクはいつもセシルを心配している。黎明の鷹に入る条件も、セシルには手出しをしないことだった。
「どうしてあなた様がセシル殿下をそこまで気に掛けるのか、理解できません。あの方の所為であなた様は、」
言いかけたサイラスの言葉を、アルクが首を横に振り遮る。
「下らないことを言うな。セシルを守るのは、あいつが今の王族の中でもっともソルディウスの加護が強い御子だからだ。王政が無くなった後も、加護を維持するための御子は必要だろう?」
「あなた様も御子でしょう」
「私は、あいつとは違う」
アルクはふっと自虐的な笑みを浮かべた。
両親に愛され、太陽のように明るく育ったセシル。あの王妃でさえ、セシルの前では子煩悩なただの母親になった。
異性関係のだらしなさが玉に瑕ではあるが、誰からも愛され、誰をも愛せることは彼の才能でもある。セシルはどんな闇もすみずみまで照らす、まさにソルディウスに愛された御子に相応しい王子だ。
「セシルはこの国の未来に必要な存在だ。変革期の混乱を鎮め、民の希望の光となるだろう。未熟な所も多いが、それすら人の心を惹きつける。私のような“濁った太陽”とは違うんだ」
アルクが前髪をくしゃりと潰す。額の徴を隠すようなその仕草は彼の癖だ。
サイラスは溜息を吐く。
人前では完璧な王子を演じているアルク。しかしその面の皮の中に居るのは、卑屈で後ろ向きで、妙に頑固なところのある面倒な男だ。そして母親に似て、優し過ぎる。
そんなアルクを、サイラスは放っておけない。
「ええ、あなた様はセシル殿下とは違いますね。あなた様は――唯一無二の、我々に夜明けをもたらす王となるお方だ」
「……王政は、廃止すべきなんだろう?」
「そういう話ではありませんよ、アルク様」




