第二十一話「歪められた真実」
遡ること数十年前。
ドゥラザークに隣した小さな陽族の村で、一人の女が慎ましやかに生活していた。女は慈愛に満ちた心の持ち主で、傷付いた者を見ると放っておけず、相手が誰であっても、迷わず救いの手を差し伸べた。例え、それが敵の夜族であっても。
戦で負傷した夜族の兵士は、その優しさに触れ、女を愛した。二人は許されない関係と知りながらも、何度も逢瀬を重ねた。
そして、二つの血を引く娘が生まれた。
陽族と夜族、双方から禁忌とされている混血子。
女は娘の存在が明るみに出ないよう、森の中の小屋に隠れ住み密かに育てた。男は二人の存在が知られないよう、これまで通りドゥラザークで兵士として暮らした。
しかし秘密は隠しきれるものではない。
物心つき始めた娘は、好奇心からたびたび家を抜け出し、まだ制御できていなかった魔力を感知され、遂に夜族に存在を知られてしまうこととなる。
血を穢したことで夜族の怒りを買った母娘は捕らえられ、夜王城へと連行された。二人の命乞いをした男は、女と娘の目の前で惨たらしく殺された。残された女と娘もすぐに後を追う筈だった。
だが、そうはならなかった。
夜王は娘を目にし、生かすことにしたのだ。
混血子は殆どの場合、陽力も魔力も持たない。体も虚弱で、生物としてどちらの種族よりも劣っていた。しかし娘は高位夜族の父を超える魔力を保有しており、何よりその顔に埋まっているのは特別な瞳――最も偉大な初代夜王も持っていたとされる、魔眼だったのだ。
混血の娘がそれを持つことに、夜王は憎しみさえ抱いたが、すぐに考えを改める。持っていないことを恨むのではなく、手元にやってきたことを喜ぶべきだと。
夜王は娘を欲した。
魔眼を使えば、自分に逆らうものを従えることができる。
外見が陽族に酷似し、微弱ながら陽力も併せ持つ娘は、ソルヴィアとの争いでも役立つに違いない、と。
夜王は娘の母親の命を対価に、決して抗うことのできない契り――命の盟約を交わした。
“夜王は娘の母を生かす。その代わり、娘は命をもって夜王に従い続ける”
盟約は対等な契約ではない。絶対的な隷属だ。娘はその日から、生きる自由も死ぬ自由も奪われた。
*
「ああ、可哀想に、こんなに傷だらけになって」
幼い体にまだ新しい傷痕がいくつもあるのを見て、女は眉間にぎゅっと皺を寄せて泣きそうな顔をした。その傷は少女が戦闘訓練で負ったものである。この間まで一人で眠ることもできなかった娘が、戦いの術を叩きこまれているという現実に、女は胸を痛めた。
女は娘に、野に強かに咲く花の名を付けたが、それはこんな苦境に耐えさせるために選んだものではなかった。
「いたくないよ。それにね、すごくはやくはしれるようになったし、おおきなものも、もちあげられるんだよ」
「……そうなの。すごいのね」
「うん! あとね、ヤゾクゴもおしえてもらったよ。えっと……」
『こんにちは』
「えっ、おかあさんも、ヤゾクゴがはなせるの?」
「ええ、少しだけね。あなたのお父さんとお話しするために、一生懸命覚えたのよ」
母の口から父の存在が出てくると、少女はいつも独りぼっちの気持ちになった。
年に数度しか顔を見せなかったその男のことを、少女はろくに覚えていない。ただの他人だ。だから、そんな男のことを母が大切そうに語る度、母を奪われたように感じるのだ。
目の前で男が殺され、泣き叫んでいた母。あの日から、母は時折遠い目をする。いつか男を追って遠くへ行ってしまうのではないかと、少女はずっと不安だった。
「ねえ、おかあさんは、わたしだけのおかあさんだよね?」
「え? ええ、もちろんよ。そしてあなたはお母さんだけの、世界で一番可愛い娘」
「……じゃあ、ずっとそばにいてくれる? どこにもいかない?」
少女の祈るような問いに、女は瞳を熱く揺らした。
「ごめんね、寂しい思いをさせて。お母さんが弱いばかりに、あなたばかり辛い目にあわせて。ごめんね。ごめんなさい……」
「ううん、だいじょうぶだよ。わたしがおかあさんを、まもってあげるから」
「……ありがとうね」
女は零れる涙を隠すため、少女を抱き寄せた。
(ごめんなさい、こんなお母さんで、ごめんなさい)
女を苛むのは、罪の意識。自分の勝手でこの世に生み落とされ、自分のために自由を奪われている娘。最愛の娘を不幸にしている自分が許せなかった。
――夜王城の離れの塔にある、少女の自室。
夜が最も深まる頃になっても、少女は眠れず、硬いベッドの上で膝を抱えていた。
母との面会があった日は、少女はいつもより孤独を痛感する。窓の外で唸りを上げる風。狭い部屋を照らす灯り。ベッドの軋む音。その全てが、少女を闇に追い立てるようだった。少女は毛布で体を包み、ぎゅっと目を閉じ、母に抱きしめられた感覚を思い出そうとする。しかし、薄い毛布は母のぬくもりとはほど遠かった。
寂しい。怖い。
込み上げる感情を、少女は明日までに何とかしなければならない。
夜族の大人達に何を言われても、毅然とした態度でいなければならない。近頃ちょっかいをかけてくるアビスにも、平然としていなければならない。
(だいじょうぶ。だいじょうぶ。わたしはつよいこ)
少女は必死に自分に言い聞かせる。
(わたしはなかない。なにもこわくない。おかあさんを、まもるんだ)
その時、ビュービューと鳴る風の音に、何か別の音が混じった。それは誰かの声――悲鳴だ。少女は毛布を剥ぎ取り、窓に駆け寄って外を見た。
月明りに照らされた殺風景な庭。そこを駆けていくのは、見慣れた女の姿。
少女は急いで窓を開け、震える声で女を呼んだ。
「お、かあ、さっ、」
ボサボサの髪を振り乱し、目を血走らせ、切羽詰まった顔の女。見たことのない母の姿に、少女は恐怖を覚える。
あれは、本当に母なのか。
母だとしたら、何故ここに居るのか。
牢から逃げ出したのか。
自分を置いて、どこへ行こうというのか。
逃げる女の背後に、巨大な影が迫った。それは少女も何度か訓練で目にしたことのある魔獣である。
理解が追い付かない光景に、少女は場違いな記憶を掘り起こしていた。まだ森の小屋に住んでいた頃、ベッドで母がしてくれた影絵。手で器用に形作られた獣が、壁に大きなシルエットとして浮かび上がる。ガオーと吠え、口を開け、牙を剥く。
「――おかあさんっ!」
女の顔が、高い塔の上の少女を見上げた。
「“ ”」
少女の耳がどんなに良くとも、その声は風で掻き消されて聞き取れない。しかし口の形で、自分の名を呼んでいることは分かった。少女は必死に手を伸ばす。
届かない。間に合わない。
苦しそうな声が、途切れる。
動かなくなった、母。
少女は、目の前が真っ暗になった。
――女の逃走は、アビスによる悪戯だった。
アビスが女に優しい言葉をかけて牢から出し、その体に魔獣の興奮剤を振り撒いて、訓練用の魔獣に襲わせたのである。
アビスがそういう遊びをするのは初めてではなかったが、その時ばかりは損失が大きすぎた。少女の母が死んだことで、夜王は命の盟約を維持することが出来なくなり、決して逆らうことの無い魔眼持ちを失ったのだ。普段はアビスに甘い王も激怒し、彼を暫く部屋に閉じ込めた。
命の盟約には、魂を従わせる必要がある。自身よりも母の命に重きを置くあの娘に、言うことを聞かせるためには、母という存在が必要不可欠だったのだ。
夜王は、今後どうやって少女を操るべきかを考えた。恐怖で言うことを聞けばよいが、そもそも、母を失ったあの娘に生きる気力はあるのか……。
しかし夜王の悩みは不要だった。
不思議なことに、盟約の証である少女の胸の呪印は消えていなかったのだ。
それどころか母の死を目撃していたにも関わらず、いつもと何ら変わりない様子で訓練や勉学に勤しんでいる。
やがて分かったのは、あまりに夜王に都合のいい状況。
娘は母の死の記憶を、自らの魔眼で塗り変えていたのだ。あまりに辛い現実に耐えきれず、自己防衛本能が働いたのだろう。少女は母が病にかかったため、会えなくなったと思い込んだ。受け取る相手のいない手紙を出し続け、何も書かれていない紙を母からの手紙だと大切にした。
少女の中で、母は生き続けている。少女がそれを信じる限り、盟約は効力を発揮し続けるのだ。
*
『アビス様、どちらに行かれていたのですか?』
『ん? 秘密だよ、はは』
腕にしだれかかり豊満な体を押し付けてくるカーラを、アビスは機嫌良く受け入れる。
二人がいるのは、ソルヴィア王国の王都近郊に残された廃墟の地下。夜族に寝返った陽族の手を借りて、アビスとカーラはここへとやって来た。
二人の潜入は夜王の命令ではなく、アビスの独断である。『モドキちゃんが信用できないから見張るため』と彼は言った。
カーラは、命の盟約を結んでいる少女が、夜王を裏切る可能性はゼロだと考えている。もし盟約が無かったとしてもアレにそんな自主性も活力も無いだろう、と。
だからアビスのそれはただの口実であり、実際は少女の報告を受け、自分もソルヴィアに来てみたかっただけ……そんなところだろうと思っていた。それ以上の理由が無ければいいと。
『アビス様。もしかして、あのモドキに会いに行かれたのではないですよね?』
『駄目だよカーラ。その呼び方は俺専用だから』
少女へ執着を見せるアビスに、カーラは嫉妬の念に駆られる。
カーラは夜王に心身を捧げる眷属の一人だったが、この度の任務でアビスと行動を共にするようになってから、彼の虜になった。美しく妖しい、その甘い毒に魅了されたのだ。
『どうしてそんなに気にかけるのですか? あんな……』
尖らせた唇が、唐突に塞がれる。カーラはうっとりと目を閉じた。
温い舌を貪り、柔らかな体を抱きながら、アビスは別のことを考えていた。
目の前の女とは全く違う生き物。
色気も愛嬌も無い、しぶとく強かな少女のことを。
――アビスが少女と初めて出会ったのは、彼女が城に連れて来られて間もない頃だ。
当時のアビスは少女よりいくつか年上とはいえ、まだ子供。しかし夜王譲りの力と、夜王も末恐ろしく思うその残忍性から、子供も大人も皆が彼の顔色を窺っていた。
誰も彼も、取るに足らない存在ばかり。
対等な遊び相手もおらず、アビスは退屈を持て余していた。そこで憂さ晴らしに、噂の混血子で遊んでやろうと思った。魔眼にも興味はあったが、単純にその血の色が気になった。肉は? 骨は? 苦痛に歪む顔は? 混血子は、夜族とどこまで同じなのだろう?
夜王の道具である以上、殺すことは許されなかったが、まあ腕の一本くらいなら大丈夫だろうと思った。
そんな軽い気持ちで少女に手を出したアビスは、相手が王子だと知らない少女から激しい抵抗を受け、痛い目を見ることとなる。
訓練を始めたばかりの粗削りな動き。そこには躊躇が無かった。恐れることを知らず、粘り強く、生き延びるためだけにアビスに立ち向かう。アビスは少女の獣じみた底力に圧倒された。喧嘩で怪我をしたのは、生まれて初めてのことだった。
アビスの怪我は大したものではなかったが、夜王は少女を酷く折檻し、二度とアビスに手出ししないよう命じた。それはアビスにとって“余計なこと”だった。
また彼女とやりあいたい。
遊びなどではなく本気で殺し合いたい。
あの時感じた、生きているという実感を、もう一度得たい。
アビスは少女より強い夜族をいくらでも知っているが、それでも何故か少女だけは特別だった。
いつも冷めていて、まるで義務のように生きている彼女。
ちょっかいをかければ、その表情は多少は歪むものの、すぐに元通り。
もっと激しい感情が見たかった。
本当の彼女が見たかった。
――それはアビスの、歪んだ初恋である。
彼女を押さえ付けている命の盟約は、アビスの願望を妨げる障壁だ。
だからアビスは、盟約の条件である彼女の母親を死に追いやった。盟約の効力を知らない母親に、娘と共に逃がしてやると言えば、涙を浮かべて喜んでいた。
しかし、母親が死んでも盟約は解かれなかった。
彼女を解放するためには、彼女が自身にかけた洗脳を解かなければならない。何度か彼女自身に母の死を告げたが、彼女の耳には届かなかった。夜王を殺すことも考えたが、それには力が足りなかった。
だから、アビスは魔眼を探し求めた。洗脳を洗脳で打ち破るために。夜王から彼女を奪うために。
陽族との慣れ合いで彼女の心が不安定な今が、付け入る好機だった。
結果、彼女はアビスの洗脳から逃れようとして、自らそれを解いてしまったが。
(ああ……これでようやく、本当の君が見られる)
盟約が切れたことに、間もなく夜王は気付くだろう。
少女の出方次第では処分命令が下されるかもしれない。
そうなったら。そうならなくても。
(君を殺すのは俺だよ、モドキちゃん。そして君が俺を殺すんだ)
自らの上で楽しそうに笑う男。その瞳の中に自分がいないことに、カーラは唇を噛んだ。




