第十九話「パーティーの夜(前)」
宵の口。リリアナは自室のベッドで、眠るでもなく横になっていた。
閉めきられたカーテン。灯りのついていない部屋では、全ての輪郭が暗闇にぼやけている。パーティーで人の出払った寮はすっかり人気がなくなり、外からは物音一つ聞こえなかった。
暗く静かな環境は、リリアナにドゥラザークでの暮らしを思い出させる。
あちらにも祭典や式典はあったが、そういう日は一日中部屋に閉じ込められていた。
『めでたい日に不吉な顔を見せるな』
『お前がいると料理が腐る』
陰湿な笑い声と共に、閉められる扉。――今回は自主的な不参加ではあるが、状況は少し似ている。どこにも身の置き場がない、と言う点においては。
半夜族であるリリアナは、穢れた血と常に蔑まれながら生かされてきた。夜王の所有物である彼女を直接傷付けようとする者はいなかったが、訓練を口実に痛めつけられ、冷たく味気ない食事を与えられ、衣服も持ち物も必要最低限。だからリリアナは、自分の好みを知る機会が無かった。
唯一、変わり者の教育係だけはリリアナに優しかったが、あくまでそれは二人の時だけ。彼も周囲から反感を買ってまで、リリアナの味方をすることはなかった。誰にでもいい顔をする、敵を作らない男。ある意味一番冷たい男とも言える。
孤独な日々。それでもリリアナは耐えることができた。母が生きていて、いつも自分を想ってくれているという事実があれば、充分だった。他の誰に認められなくても、唯一無二の愛があればよかった。
母だけが、リリアナの存在理由だった。
――それがここ最近、変わりかけている。
ソルヴィアでの生活は、リリアナがこれまで目を背けて来た“感情”に気付かせてしまった。温かく味のある食事の美味しさ。着飾り褒められることの喜び。隣に居てくれる誰かの存在。
決して自分の物にはならない仮初めの幸せは、リリアナを苦しめた。
目を閉じた時、母の次に浮かぶのは、太陽の下がよく似合う人達。
リリアナは、ポケットの中から一枚の栞を取り出す。
長方形の厚紙に貼り付けられた、茶色くくすんだ花。それはリリアナがアルクから受け取り、ひと悶着を起こしたあの花だ。ハンカチに包みっぱなしにしていたその花を、レティシアが押花の栞にしてくれた。ずっと取っておけるように、と。
リリアナはそっと、それを胸元に引き寄せる。
(このまま、リリアナ・ローレンスのふりをしたまま、何もせずに冬を越したらどうなるだろう)
夜王に逆らったことで、盟約により命を奪われるかもしれない。万が一逃れる術があったとしても、口封じのために誰かが暗殺に来るかもしれない。卒業し疎遠となったアルクが術から解放され、リリアナの正体に気付き、捕えられ処刑されるかもしれない。ドゥラザークとの戦争でどちらにも属せないまま、死ぬかもしれない。
いずれにせよ待ち受けるのは死である。
今のままの日々を続けることはできないのだ。
自分では、リリアナ・ローレンスにはなれない。
(……余計なことは考えるな。わたしが考えるべきは、それじゃないだろう)
今こうしている間も、一人牢の中で、病と孤独に蝕まれている母。その存在を無視した自分勝手な考えに、リリアナは自己嫌悪する。
(わたしは母の為に、任務を果たしてドゥラザークに帰るんだ。命令通りに、王子を連れて、暗黒神に……)
コツ、コツ。
何か硬いものが、窓ガラスを叩く。
リリアナは飛び起き、ポケットに栞をしまうと、警戒しながらカーテンを引いた。窓の向こうには、ガラスをつつく一羽の鳥。羽も嘴も真っ黒なその鳥は、リリアナをもの言いたげに見つめている。
――その瞳の奥に渦巻く魔力を感じ取り、リリアナは察した。
この鳥は、魔術によって使役されている。夜族の誰かがリリアナに寄こした使いだ。
鳥はリリアナに方向を示すように、学院に隣接している森の方へと飛んでいく。
(一体誰が? どうやって結界の中に……)
リリアナは寝間着のまま外套を羽織り、部屋を出た。
寮から森へ行くには、パーティー会場として使われる講堂の横を通る必要がある。物陰に隠れ、早足で通り過ぎようとしたリリアナは、その眩しさに思わず足を止めた。
講堂付近は灯りで煌々と照らされ、夜だというのに昼間のように明るい。その眩しさのお陰で、光の届かない場所にいるリリアナは人目につきにくくなっていた。
入口へと続く石畳の道。腕を組み歩いて行く、男女の姿。
淑女達は華やかなドレスを身に纏い、隠しきれない高揚に頬を染めている。肩を並べる紳士たちは、燕尾服のボタンや袖口のカフスを気にしたふりをしながら、こっそりパートナーに見惚れていた。
リリアナは、よしておけばいいのに、どうしても“その人”の姿を探してしまう。そして見つけてしまった。誰よりも目立つ二人組など、探すまでも無い。
リリアナはアルクの隣に居るエレナの姿を見た時、胸に鋭い痛みを覚えた。
一目見て分かる。彼女より美しい者など、他にはいないと。
銀色の刺繍が施された純白のドレスは、エレナの動きに合わせ、夜空に輝く星々のように煌めいている。ファーの下に覗く豊かな胸、髪が結い上げられ露わになった白いうなじ。誰も彼もが思わず目を奪われるが、彼女が見ているのは、自分の隣の男ただ一人だ。
アルクはエレナを引き立たせるように、黒を基調とした燕尾服を身に纏っていた。落ち着いた色合いだが、彼だからこそ地味にはなり得ない。美しく伸びた背、余裕を感じさせる立ち姿。銀色の髪は闇夜に輝く月光の如く、上品なコントラストを描いていた。
今宵の主役は、間違いなくこの二人だろう。
“アルク様”と、エレナの赤く縁どられた唇が紡ぐ。アルクは彼女にそっと視線を落とし何かを応えると、軽く腕を差し出した。エレナは微笑み、彼の腕にそっと手をかける。
二人は会場の方へと消えていった。
リリアナは逃げるように、その場を後にする。
(……今の後ろ姿、もしかしてリリアナ様?)
「うわ~、やっぱり兄さん達は目立つなあ! さあレティシア、僕達もそろそろ行こうか」
セシルは出来るだけ自然な風を装い、レティシアに手を差し出す。他の女子相手なら腰でも抱いているところだが、レティシア相手にはそうはいかない。彼女を意識し始めてから、セシルは彼女に対してだけ不器用になっていた。
緊張で汗ばんだ手は、ぎこちなくパートナーの手を掴む。……ことなく、宙を掴んだ。
「あ、あれっ?」
「セシル殿下、ちょっと待っていてください! あたし、ちょっと……行かないと!」
「え、え? レティシア!? レティシアー!」
セシルは咄嗟に追いかけようとするが、もしかすると男には言えない用事なのかもしれない、と踏みとどまる。待っていろということは、戻ってくるのだろう。
セシルは寂しそうな顔で、どこかへと駆けていくドレス姿を見送った。
*
講堂から離れたリリアナは、森の中を早足で進んでいく。肺を満たす湿った匂い。大きな蜘蛛の巣が顔に張り付き、苛々を加速させた。
寝癖もそのままの、だらしない姿。蜘蛛の巣にまみれ森の中で一人きり。そんな自分と先程目にしたエレナを比較してしまう。美しいドレス姿でアルクの隣に立っていたエレナが――妬ましい。
もしアルクのパートナーになれずとも、レティシアに頼んでドレスを着せてもらって、あの場所に立っていたら、彼は自分を見つけてくれただろうか? 街に出かけたあの日のように、褒めてくれただろうか。
(それに何の意味がある? 最近のわたしは、本当にどうかしている!)
これまでの人生で、他者を羨んだことなどなかったのに。
それがいかに無駄で、自分を苦しめることであるかを知っていたのに。
『折角のパーティーなのに、浮かない顔をしているね』
それは、ここにいる筈のない男の声。
暗く冷たい空気がリリアナの肌を粟立たせる。
『やあ、元気かい? “モドキ”ちゃん』
森の中でリリアナを待ち受けていたのは、ドゥラザークの王子アビスだった。全身を黒いマントで覆い、帽子を深く被ったその姿は、一見誰だか分からない。しかし背格好と声、夜族語――何よりリリアナをそのように呼ぶのは、アビスだけである。
結界の中に侵入出来ている時点で、相当の手練れだろうと予想していたが、まさか敵国の王子が単身で乗り込んでくるとは思わなかった。
(いや、アビスならやりかねないか)
『……何故、あなたがここにいるのですか?』
リリアナは慎重に周囲を確認してから、声を潜め、夜族語で問う。
『ずっと城に居てもつまらないからね。ようやく冬になったから、遊びに来てみたんだ。モドキちゃんばかり楽しそうで、ずるいからさ』
『ここは殿下のお体に障りますよ』
『ハッ、馬鹿にするなよ? 夜はピリッとして、寧ろ心地いいくらいだ。そこらの陽族如きに後れは取らない。……寧ろ、ちょうどいいハンデだと思わないかい? 暇つぶしに、一狩りしようかな』
アビスの顔は、明らかにリリアナの反応を期待しているものだ。リリアナは無表情に努めたが、アビスにはそうは見えなかったらしい。
『はは、そんな怖い顔しないでよ。今日はわざわざ、君にプレゼントを持ってきてあげたんだからさ』
……プレゼント。リリアナの脳裏には、大量の虫、魔獣の臓物、夜族の生爪、陽族の生首が思い浮かぶ。どれもこれも、過去にアビスから押し付けられたものだ。
要らないが、一応相手は王子である。突っぱねることはできない。
『プレゼント、ですか?』
『そう。舞踏会に行けない可哀想なお姫様に、素敵な魔法を、ね』
帽子の奥で、瞳が妖しく光る。リリアナは嫌な予感がして思わず後退るが、逃げることは許されなかった。アビスは片手で彼女の手首を押さえ、もう一方の手で顎を持ち上げると、息のかかる距離で彼女の瞳を覗き込む。リリアナは、驚愕に目を見開いた。
彼の左目、縦一直線に入った傷痕。
眼孔に埋まっているのは、彼の瞳ではない。魔力で独特な虹彩を浮かび上がらせているそれは、リリアナと同じ――魔眼だ。
『その目は、』
『ああうん、貰ったんだ。偶然魔眼持ちを見つけてね。一つは移植が失敗してしまったけど、眼が二つあって助かったよ。ずっといいなって思ってたんだ、コレ』
夜族の始祖王も持っていたという魔眼。アビスが昔からそれに興味を持っていたことをリリアナは知っていた。彼が向けてくる視線には、物欲しげな色が滲んでいたからだ。
アビスは貰ったと言っているが、恐らくは強引に奪ったのだろう。それにしても、よく所有者を見つけられたものである。
驚きで見入ってしまうリリアナ。それが、よくなかった。魔眼と目を合わせてはいけないことなど、誰よりよく知っていた筈なのに。
『可哀想なモドキちゃん。本当は君も綺麗なドレスを着て、王子様と踊りたかったよね』
(何を……)
『いいんだよ。分かってる。君は陽族との慣れ合いに惑わされてしまったんだ。まるで自分のことを、陽族の娘のように思っている』
アビスの言葉がリリアナの脳内に木霊する。
魔眼の扱いならばリリアナの方が長けているが、他人の感情を掌握することに関しては、アビスの方が何枚も上手だ。彼は相手の負の感情を煽り、傷口を広げ、甘い言葉で陥落させる。そういうやり方で、多くの者を意のままに操ってきた。皆、彼を恐れながら、彼に惹かれるのだ。
『可哀想、可哀想だね。君はいつもいつも仲間外れだ。夜族にも陽族にもなれない、孤独なモドキちゃん。苦しいね、悲しいね』
甘い囁き。アビスの指がそっとリリアナの頬をなぞる。リリアナの頭の中が霞がかっていく。ただ、アビスの言葉だけが響き渡る。リリアナには彼の言葉が、自分の言葉のように感じられてきた。
アビスはリリアナの様子にほくそ笑む。……全てが予想通りだった。
彼はリリアナがこの潜入任務で、生ぬるい陽族の生活を味わい、感化されることを見越していたのだ。無感情な彼女が感情的になり、付け入る隙が生じることを。そして今――手元には、付け入ることのできる力がある。
アビスはこの時をずっと待っていた。
『俺なら助けてあげられるよ。君をその孤独から救ってあげられる』
『……どうやって?』
『俺の目を見て、声を聴いて、心を傾けるんだ』
リリアナの目が、光を失っていく。
『さあ、モドキちゃん。まずは――』
「リリアナ様!」
ガサガサと草をかき分けやって来た少女。気配でとっくに気付いていたアビスは、歓迎の笑みを浮かべる。少女――レティシアは、アビスのただならぬ雰囲気に肩をビクリと震わせた。
「リ、リリアナ様、その方はどなたですか?」
(……レティシア?)
リリアナはぼうっと、声の方を見た。
きっと綺麗にセットしただろう髪が、枝に引っかかったのか崩れている。ドレスの裾や靴は土で汚れていた。セシルとパーティーに行っている筈の彼女が、何故ここに居るのだろう?
虚ろな瞳のリリアナを、アビスが優しく抱き寄せた。そして、その耳元に囁きかける。
『彼女は友達なんだね? なら、ちょうどいい』
アビスはリリアナの手に何かを握らせた。月光に鈍く輝くそれは、鋭い短剣。レティシアが小さく悲鳴を上げる。
『君がその孤独から解放される方法は、ただ一つだよ。孤独を感じる原因を、なくしてしまえばいいんだ。さあ、』
――“殺せ”。
アビスの言葉がリリアナの思考を埋め尽くす。
リリアナは、彼の言う通りだと思った。
今ここでレティシアを殺せば諦めがつく。彼女達とずっと一緒にいられるかもしれないなどと、あり得ない妄想に耽ることも無い。自分は夜族側で、彼女達は敵。その境界を明確にすることで、心乱されず任務に専念できる。
アビスに背を押され、リリアナはゆっくりとレティシアに歩み寄った。レティシアは何が起きているのか分からず、ただいつもと様子の違うリリアナに不安そうにしている。その手に光るナイフが自分に向けられても、臆病な彼女は逃げ出すことも出来なかった。
……違う。
「リリアナ様。一緒に、戻りましょう」
迷いのない声。真っ直ぐ伸ばされた手。
レティシアは臆病などではない。
非力なこの少女は、友人の為に本気で怒り、立ち向かうことが出来る。
人の為に勇気を奮い、強くなることが出来る。
リリアナは自らの弱さを自嘲しながら、ナイフを振りかぶった。




