第一話「リリアナ・ローレンス」
男爵家の一人娘、リリアナ・ローレンス。
幼い頃より病弱で屋敷に籠りきり、話し相手は使用人や家庭教師、過保護な父親だけ。母親も体が弱く、リリアナが物心つく前にこの世を去った。
同年代の友人が欲しい。健康な体で外を走り回りたい。そんな祈りが通じたのか、徐々に体は快復の兆しを見せ、十六歳になったリリアナは他の生徒に大きく後れを取りながらも、念願の学院生活を送ることができるようになる。
しかし学院内の複雑で繊細な人間関係に、人付き合いに不慣れなリリアナは付いて行くことができず、すぐに浮いた存在となってしまった。そんな孤独な学院生活を送っていたリリアナが出会ったのが、同じように一人で行動することの多い、第三王子アルクである。
彼の孤高の気高さと美しさに、リリアナは心惹かれた。そしてアルクもまた、リリアナの世に擦れていない純真さに惹かれた。
だがアルクには既に婚約者がおり、二人はその恋と向き合うことは出来なかった。アルクが卒業するまでの数か月、学院という箱庭の中だけの秘められた恋。……エレナの裏切りにより、彼女へのアルクの情が切れた今、二人の想いを止めるものはなくなっていた。
――なんて、そんな話ではない。これは。
リリアナは回廊に佇むエレナをそっと振り返った。いつも淡い薔薇色に染まっていた頬は、血の気が失せてげっそりしている。自信に満ちスッと伸びていた背筋は、臆病な小動物みたいに丸まっていた。その姿はあまりに痛々しい。
『あなたはその女に騙されているのです!』
頭の中に、エレナの言葉が反響する。
(……全くもって、その通り)
エレナが言っていることは正しかった。憐れなアルクは、純真無垢の仮面を被った悪女に騙されている。エレナの不義の噂の真偽は定かではないが、己の悪行とは比べるまでも無い。
憂いが顔に出ていたのか、アルクが気遣わしげに覗き込んでくる。優しくも、ジワリと焦がすような、恋の熱に浮かされた視線。リリアナは息苦しさに潰されそうになった。
――男爵令嬢リリアナ・ローレンス。
その正体は、敵国から送り込まれた潜入者だ。
*
太陽神ソルディウスの光が届かぬ地、そこには常夜の王国、ドゥラザークがある。
荒涼と吹きすさぶ風、乾きひび割れた地表。その地を支配する夜族は、ソルヴィア王国に住む陽族に近い姿形をしているが、暗闇の中でも見通せる瞳、三日三晩動き続けられる強靭な肉体、陽族よりいくらか長い寿命――そして、体内には魔力という特有のエネルギーを有している。
遥か昔、夜族は大陸全土の支配者であった。
長きに渡り不動の王座に君臨していた夜族。しかしある時、陽族は圧政に屈することを拒み、反旗を翻した。
陽族を率いた一人の男は、天に居わす太陽神に魂を捧げることで、夜族に対抗できる聖なる力“陽力”を手に入れる。その男こそ、ソルヴィア王国の始祖王だ。
二つの種族は、激戦の果てに大陸を二分する。
しかし、それで戦いが終わることはなかった。夜族は失った半分を奪い返すために。陽族は全てを手に入れるために。力を持つ者は、往々にして欲深くなるものである。
以来、夜族と陽族の間には、大陸の支配権を巡って、幾度となく争いが繰り返されてきた。
争いを好まない一部の夜族達は、ソルヴィア王国との和平を夜王に進言した。平和条約を締結させ、互いに自らの領域内で過干渉せず生きていくようにしようと。しかし夜王は聞く耳を持たなかった。彼は己こそが大陸の支配者たるべき存在だと信じて疑わないのだ。
やがてドゥラザークでは、和平派によるクーデターが頻発するようになり、反乱軍は徐々に力を付けていった。夜王は自らの求心力の弱まりを感じ、誰も逆らうことのできない絶対的な力を欲した。
そんな彼に、一つの道が示される。
それは太陽神と対をなす存在、暗黒神ノクティリスの啓示だ。
かつて太陽神と争い、敗れた暗黒神。深き闇の底、忘れ去られた神殿に眠る古の神が、夜王の魂に呼応し語り掛けて来たのだ。
『ソルディウスの御子を我に捧げよ。太陽の加護は王族の魂に宿る。その魂を闇に染めれば、陽の力は消え去るのだ』と。
太陽神の御子である王族を、闇に堕とす。それはすなわち太陽神への背信であり、陽族は加護を失うことになる。
それが、夜族が覇権を取り戻す鍵となるだろう、と。
夜王は暗黒神の言葉に魅入られた。
そして、彼が目的の為に切った切り札こそが、とある少女だ。
三十年ほど前、ドゥラザークとソルヴィアの国境にある小さな村で発見された一人の少女。少女の父親は夜王軍の精鋭であり、戦で瀕死の彼を介抱した陽族の女が、母親である。つまり“混血子”だ。
純血主義のドゥラザークで血を穢した罪は重い。父は処刑され、母と娘もすぐにその後を追う筈だった。
しかし夜王は、高い魔力を発揮した娘に興味を抱き、手駒として飼い慣らすことにした。
混血子は殆どの場合、異なる種族の血が反発し合い、純血よりも虚弱に生まれる。陽力も魔力も持たない、凡庸以下の存在となることが殆どだ。だが、少女は例外だった。
夜族の特徴である尖った耳も牙も無く、外見は陽族と変わらないが、その身に秘めた魔力の保有量は高位夜族にも匹敵する。何より夜王の気を引いたのは――少女が、夜族の中でもごく僅かな者しか持たない、相手の精神を洗脳する“魔眼”の持ち主だったことだ。
この娘は必ず自分の役に立つ。そう確信した夜王は、少女を隠し玉として育て上げた。
……その長年の成果を、結実させる時が訪れたのだ。
『ようやくお前の真価を発揮する時がきた。ソルヴィア王国へ行き、愚かな王子を篭絡し、必ずノクティリス様の元へ連れてくるのだ』
『……かしこまりました』
少女は決して夜王に逆らう事のできない呪術――“命の盟約”を結ばされていた。夜王の命令に反すれば、それは呪いとなり少女に激しい苦痛をもたらす。少女に選択肢は無かった。
こうして少女は、ソルヴィア王国に送り込まれることとなったのである。
少女が夜王の眷属に連れて来られたのは、ソルヴィア王国の辺境にあるローレンス男爵領。国の中心である王都と比べ、ここは遥かに太陽神の加護が弱い。何より領主であるローレンスは、既に夜族の傀儡である。
妻に病で先立たれ、娘も病に侵されている男爵は、弱り切っている心を夜族に付け込まれた。夜族に伝わる秘術ならば娘の病を治せるという嘘に、縋ってしまったのだ。
少女は男爵の協力の元、一人娘リリアナ・ローレンスになり替わり王都の学院に入学することになっている。
少しでもそれらしく振る舞えるよう、リリアナの様子を見ておこうと踏み入れた寝室で少女が見たものは――ベッドに横たわる、干からびた皮と骨。
男爵は既に狂っていたのだ。
『……あなたの名前、暫く借りるよ』
これが、アルクとエレナの婚約破棄騒動から、三ヶ月と少し前の出来事。
偽りの令嬢、リリアナ・ローレンスの始まりである。




