第十七話「交錯する想い」
漆黒の髪、血色の瞳。その毒のような笑みを向けられた者は、立ち向かう気概を奪われる。いっそのこと諦めて、吞まれてしまった方が楽だと。
『モドキちゃんが潜入してから、もうすぐ二月だねえ。みんな寂しがってるよ。特に、我が父上はね』
夜王の息子、アビス。彼の含みのある物言いに、リリアナは感情を噛み殺し無表情を心掛けた。
――定期的に行っているカーラへの報告。ここ最近姿を見せなかったアビスが、今日はカーラを押しのけて出て来たことに、リリアナは心をざわつかせる。嫌な予感がするのだ。アビスを前にして、良い予感など抱いた試しはないが。
『当初お話した通り、計画を実行するのは太陽神の加護が弱まる冬季です。王子を連れ出す算段も付いています。お任せください』
『うーん。俺はさ、予定調和が嫌いなんだ。知らなかった?』
『それは、存じ上げませんでした』
『何でもかんでも、予定通りに事が進むのは気に入らないんだよ。そんなのは退屈だ。つまらない。だからさ、今のモドキちゃんは――中々“イイ”よ』
アビスは頭を傾け、鏡の向こうからリリアナを覗き込む。彼の真っ赤な瞳に映る“あまりに弱々しく見える少女”が、リリアナに繕うことの無意味さを知らせた。
アビスはリリアナの心の揺らぎに気付いている。リリアナ自身でさえ持て余すその感情を見抜いている。だが、リリアナは認める訳にはいかなかった。そのためにも、彼から目を逸らしてはならなかった。
しかし、全てを見透かすようなその視線に耐えられず、思わず顔を背けてしまう。アビスはリリアナの反応に喉を鳴らして笑った。
『くっ……はは。いいね、楽しい』
『……そうですか』
『うん。モドキちゃんも楽しいでしょ? カーラから近況は聞いているよ。随分と上手くやっているらしいね。恋愛ごっこに、友情ごっこ。情が移っても仕方ないよねえ?』
『わたしは一度も、そのような報告はしていません。勝手な解釈をなさるのはおやめください』
『え? なんて? 俺、モドキ語には疎くてさ』
『……そうですか』
どうせ彼に何を言っても無駄だ。リリアナは反論を諦める。アビスはそんなリリアナに小さく肩を竦めた。
『やれやれ。モドキちゃんは諦めが早いよねえ。まあ、その方が君の為だけど』
『何のお話ですか』
『あ、知りたい? いいよ、教えてあげる。今日はその話をしてあげようと思っていたんだ』
アビスが声を潜める。そして、まるで内緒話でもするかのように無邪気に――いや、邪気に塗れた顔で囁いた。
『祭りだよ。血祭りだ。君が王子の魂を暗黒神に捧げ、太陽神の加護が崩れた時――それが始まりの合図になる。宣戦布告なんて無粋な真似はしない。一気に攻め込んで、まずは国境都市を一つ沈めるんだ』
(合図……)
アビスの言葉が、リリアナの胸に突き刺さる。
自分の行動が争いの引き金になるという事実が、今のリリアナにはとても重かった。ソルヴィア王国を、そこに住まう人々を、滅びへ導くということが。
『……もし、太陽神の加護が崩れなかったら、どうしますか。暗黒神のお告げが誤っていたら』
『おや、我らの神を疑うのかい? まあ正直、俺も信じてないけどね』
『え?』
『父上――あの耄碌ジジイは、暗黒神の亡霊にでも魅入られて狂ったのさ。理性よりも信仰、判断よりも啓示。哀れなものだ』
アビスから笑みが消える。実の父親のことを語る彼の目には、蔑みでも憐れみでもない、もっとドロドロとした感情が見え隠れしていた。リリアナは彼ら親子の事情など知る由もないし、知りたいとも思わない。
『信じていないというなら、わたしの任務は……』
『まあ暗黒神なんて居ても居なくても、遅かれ早かれこうなったよ。君が任務に失敗しても、俺達はもう待たない。和平を望む愚者どもを黙らせ、夜族の血がいかに優れたものかを知らしめる。……大暴れしたい気分なんだ。いつもだけどね』
アビスはまた、いつもの笑みを取り戻した。
『と言う訳でモドキちゃん。残り僅かなガクセイ生活を楽しんでね。……近い内に会おう』
ヒラヒラ、と手を振って、アビスは鏡の奥へと消えていく。
リリアナは口内に滲む鉄の味に、唇を噛み過ぎていたことを知った。
*
――秋が深まる。
紅や黄金に染まる木々は、最後の命を燃やしているようだった。
放課後、花園に向かおうとしたリリアナは、中庭に見知った二人を見つけて立ち止まる。
「ちょっと! もう少し離れてくださいよ!」
「僕はつれない子も嫌いじゃないよ。でもほら、静かにしないと気付かれるからさ……」
「もーっ! どこ触ってるんですか!」
「いや、ただ肩に触れただけだよ!?」
生垣に身を潜め、小声(というには大きすぎる声)でやりとりをする男女。制服に枯れ葉をくっ付けて、何やら生垣の向こうを覗き見ているようだ。今日も愉快な二人の様子にリリアナは脱力する。
セシルと、レティシア。
彼らとは一月前のピクニックランチを共にして以来、アルクも含めた四人で話す機会が増えた。示し合わせて集まったことはないが、リリアナの元にレティシアがやってくると、セシルが寄ってきて、最後にアルクが現れるのだ。
リリアナはこの二人のことが嫌いではない。特にレティシアとは親しい友人のように過ごしている。
レティシアと行動を共にするようになってから、これまで距離を置いていた生徒たちも、少数ではあるが声をかけてくるようになった。彼女達は決まって『話してみると印象が違いますね』と驚く。リリアナ悪女説は、それほどまでに一人歩きしているのだ。
レティシアのおかげで、孤独だったリリアナの学院生活は、楽しいものになってしまった。
(二人とも、何をしているんだ?)
リリアナはうっかり気配を消してしまわないよう注意しながら、彼らの背後に近付く。まずはセシルが気付き、次にレティシアも振り返り――二人は“あっ”と同じ顔をした。まるでその先に、リリアナに見られてはマズイものでもある反応だ。
リリアナも身を屈め、そっと、生垣の向こうを覗き込んだ。
そこにいたのは――絵画のような恋人同士。
秋の薔薇を背に、親密な雰囲気で語り合っている。
レティシアは気まずそうにリリアナを横目で見た。リリアナは眉一つ動かさず、無表情でそれを眺めている。
「リリアナ様……」
レティシアは胸を痛めた。彼女はリリアナの感情表現の乏しさを知っている。そしてその中身が、決して虚無ではないことも知っている。リリアナの心を代弁するように、眉を吊り上げ拳を握り締めた。
「もうっ! アルク殿下は何を考えていらっしゃるの!? もっと誠実な方かと思ってました!」
「こらこらレティシア、ほんとに静かにしてよ。兄さん地獄耳なんだからさ。気持ちは分かるけど」
「分からないですよ、セシル殿下には! セシル殿下だけには、絶対、ぜーったい分からないですっ!」
(誠実……か。あれこそが、本当の誠実の形なんだろうな)
セシル達が見ていたのは、アルクとエレナだった。
紛い物ではない、真実の愛で繋がっている二人。
リリアナは言い合う二人の横で、いずれ自分が引き裂くことになる二人を静かに眺め続けた。
それから間もなく、エレナは友人達に呼ばれてどこかへ行ってしまった。名残り惜しそうな笑みを交わし、別れる二人。一人になったアルクは穏やかな微笑のまま――生垣に近付いてくる。セシル達に逃げ場はなかった。
「や、やっほー、兄さん」
「セシル、その歳で隠れんぼか? ……ああ、リリアナも居たのか」
アルクは僅かに目を見開き、ばつが悪そうにする。リリアナが彼に挨拶をしようとした時、威勢のいい少女の声がそれを遮った。
「ア、アルク殿下! あたし、物申したいことがございます!」
「……なんだ?」
「リリアナ様は、とっても純粋な方なんです! だから、そ、その……リリアナ様を泣かせたら、あたし、ぜったい許しませんっ!」
王子を相手に、度を超えた無礼を働くレティシア。彼女の気迫に、アルクは半歩後退った。リリアナはポカンとした。セシルは見入っている。
「レティシアさん、落ち着いてください」
「無理です! リリアナ様は優し過ぎます! あたし、あたしはっ、」
「……落ち着いて」
リリアナの低い声に、静かになるレティシア。ようやく自分の行き過ぎた行いに気付き、顔を青くしている。
「も、申し訳ございません。でもアルク殿下、あたしの発言……撤回はしませんからーっ!」
レティシアはそう言い捨て、学舎の方に走り去っていった。
リリアナとアルクは気まずそうに顔を見合わせる。何も言えずにいると、突然セシルがリリアナの肩を抱き寄せた。
「レティシアの言う通りだよ、兄さん。女性には真摯に向き合わなくちゃ」
(どの口が言っているんだ?)
「でもまあ、安心してよリナリーちゃん。何かあったら、いつでも僕が慰めて、」
べりっと、アルクが二人を引き剥がし、間に割り込む。アルクはセシルの方を向いており、リリアナからはその表情が分からない。だがその向こうのセシルの様子は分かった。セシルは怯えたような、どこか嬉しそうな、複雑な顔をしている。
「はは……そんな目、初めて見たよ。さて、僕は勇敢なお姫様を慰めに行こうかな」
お姫様とはレティシアのことだろう。彼女をまた揶揄うつもりかもしれない。そう思ったリリアナは「待って」とセシルの腕を掴みかける。が、アルクに阻まれた。
セシルはふっと微笑むと、レティシアの後を追っていってしまう。
(……まあ、大丈夫か。レティシアは意外と気が強いし、しっかりしているから。セシルに流されたりはしない筈だ。セシルだって、本当に嫌がる相手に酷いことはしない。彼は彼なりに弁えているように見える)
「随分気にかけるんだな」
「え?」
「“まだ”セシルが気になるのか?」
鋭い眼光、含みしかない物言い。リリアナは、最初の図書室でのことを思い出した。
「いえ、わたしが気にしてるのは、レティシアの方です」
「……本当か?」
「本当です」
最近たまに、アルクはこういう一面を覗かせる。それは大抵が、リリアナがセシルと話をしている時だ。つまり、嫉妬である。
リリアナはアルクが自分に対して、その身勝手な感情を向ける時――不快感を覚えた。アルク自身は、エレナとあんなにも親しくしているというのに、と。彼が自分といるのは、決して彼の本意ではないと知りながら、それでも理不尽な怒りを抱かずにはいられない。
「あの、レティシアの言っていたことは、気にしないでくださいね」
「……君は、気にならないのか」
「何がですか?」
「私とエレナのことだ。何を話していただとか……」
――訊かずとも分かっている。
半夜族のリリアナの聴力は、陽族とは段違いに優れているのだ。あの距離なら、集中すれば会話の内容が分かる。アルクとエレナは、一月後に学院で開催されるダンスパーティーの話をしていた。
太陽神の加護が弱まる冬、暗い夜に沢山の光を灯し、寒さに負けず春を願う祝祭。それは学院の生徒達にとって――中でも恋人同士や、意中の相手がいる者にとっては、大切なイベントである。
光に包まれながら愛を交わし合った二人は、永遠に結ばれるという言い伝えがあるからだ。単独でも友人同士でも参加できるが、男女一組で参加する者が殆ど。婚約者同士であれば同伴は当然だ。
「いえ、全く気になりません」
リリアナは思わず強い口調になってしまった。アルクが驚いたように目を丸くする。だが一番驚いたのはリリアナ自身だ。ハッと口元を抑え、俯く。
「……そうか」
アルクは下を向いている彼女の顔を、無理矢理にでも持ち上げ、確認したかった。何を思い、何を隠したがっているのかを。
(私は一体、何を期待しているんだ?)
アルクは自嘲の笑みを浮かべた。
例えどんな事情があったとしても、リリアナは夜族の手先。敵であることには変わりない。だというのに、そんな彼女に何を期待するというのか。
王族を標的にし、高度な洗脳術を使い、何かを企んでいるリリアナ。
例え彼女自身に悪意が無かったとしても、危険な存在には変わりない。だからアルクは、彼女をセシルと二人きりにしないようにしてきた。油断と隙だらけの弟を守るためにだ。
リリアナといれば、自分に苦手意識を持っているセシルは近付いて来ない上、彼女の動向を見張ることもできる。……最初はそうだった。
いつからかセシルは、子供の頃みたいに気軽に話しかけてくるようになり、リリアナとも親しくし始めた。それはアルクにとって都合が悪いことだが、何故か穏やかな気持ちにさせられた。そして、知らない苛立ちを覚えもした。
(……勘違いするな。彼女は目的のために、私に近付いているだけだ)
目の前の少女が、時にいくら無垢に見えたとしても。その瞳に熱い感情が揺れ動いているように見えたとしても。全部、偽りなのだ。
そう分かっていてもなお、アルクはリリアナの中に何かを求めてしまうのを止められなかった。




